今は眠れ。

大佐と兄


 物憂げな午後の陽射しが、ふと翳る
 裁可を待つ書類の間から、私はゆっくりと顔を上げた。
『風が出てきたか……』
 未だ青空は見え、長閑な小鳥の囀りも聞こえてはくるが、雲の流れは速い。
恐らく、夕刻には雨になるだろう。
 細く開けていた窓を閉めようと立ち上がり、私は思わず苦笑を洩らした。
 稀代の錬金術師、と謳われた少年が熟睡している。
『そういえば、さっきから写しを取る音が聞こえなくなっていたな』
 鞘鳴りを抑え近付いても、珍しく目を醒さない。少しは信用してくれる気に
なったのか、ただ単に疲れ切っていて意識を覚醒にまで持っていけないのか。
肩からずり落ちそうになっている長衣を掛け直しても、その眠りは覚める事が
なかった。


 久し振りに私の執務室を訪れたと思えば、開口一番、机を貸せときたものだ。
「素直に私に逢いにきたと言えないのか」
「なんでアンタの顔を見に来ないとならないんだ?」
 貴重な写本や資料で両手の塞がっている彼のために椅子を引いてやりながら
揶揄うようにそう言えば、げんなりした視線が返る。だが、言う程は嫌がって
いない筈だ。
「単にデカい机が必要だっただけだよ」
「そういう事にしておこうか」
「そういうもこういうも、その通りなんだってば!」
 こうして、何という事のない言葉遊びを楽しんでいる節もあった。
 最近では、それも楽しいと思っている自分がいる。
 初めは、その空恐ろしいまでの能力に興味を抱いた。
 試験会場での技倆は、見事の一言に尽きた。おまけにあの一瞬で、私の叛意
にまで気付いた――今まで、誰にも気取られる事はなかったものだが。
 子供だと侮っていれば、思わぬ陥穽になるかも知れぬ。
 だが、正直その力を欲しいとも思う。信頼できる能力の高い術師がつけば、
それだけ私の望みに近くなるのは当然のだからだ。
 果たして、彼は私の前に立ちはだかる存在になりうるのか、否か。
 ――答は、まだない。


 丸い後頭部をそっと撫でてやる。
 考えてみれば、まだ親の庇護の許にいてもおかしくない年齢なのだ。
 実際に彼と逢うまでは、誰も彼もが《鋼》という言葉の武骨さに惑わされ、
こんな年端もゆかぬ少年であるとは知らない。その卓越した才能も相俟って、
誰しも《鋼》の称号を冠する者は“大人”だと思い込む。
 まして、その隣には雄偉な鎧に身を包む――これも、実際には見かけ通りの
姿ではないのだが――偉丈夫が並んでいるとなれば、尚更だ。
 子供の立場に甘んじるを許さぬ意志の現われと見れば、いっそ異常なまでの
背丈に対する被害妄想的反発も頷ける。尤も、本人にこの事を訊けば意地でも
否定してくるだろうが。
『私で良ければ、いつでも愚痴くらいは聞いてやる』


 だから、今は眠れ。
 倦み疲れた身体と心を鎮め、また戦いに赴けるよう。
 目が醒めれば想像するまでもなく烈火のように怒り狂うと解っていて、私は
ゆっくりと頭を撫でていた。




《画布》
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