Angel Kiss


「出かけてくる」
 彼がそんな言葉と共に出ていってから、もう随分になっていた。
 歳も押し迫った、冬枯れのある日。
 きちんとした格好をしていないとドアマンに止められそうな、そんな格式ある
ホテルを僕達は取り敢えずの根城にしていた。
 でも、よりによって良くこんな時期に予約が取れたものだと思う。
 僕としては、もっと普通のところでも良かったのだが、奴らの目がどこでどう
光っているか解らない、とはスネークの弁だ。
 流石にこの間の大立ち回りは、余りにも目立ち過ぎた。暫くは身を潜めている
方がいい。
 それなのに、わざわざ出かけるという相棒。
 まあ、滅多な事はないとは思うが……
 雪も相当に降ってきた。
 アラスカから比べれば可愛いものだが、それでも雪慣れしていない――例えば
僕にとっては、結構な死活問題だ。足元は覚束なくなるし、毎日の雪掻きだって
莫迦にならない。尤も、ここにいる間だけはその必要はないけれど。
 それに、とにかく寒い。
 時期が時期だけに文句を言っても仕方がないのだが、何もこんな時にわざわざ
好んで外出しなくても良さそうなものだとは思う。
 ニュースでは降り頻る雪の中、寒そうに首を竦めた通行人が足早に行き交って
いるのが映し出されている。見ているだけで肩が凝りそうだ。
 暖かい部屋にいられて、心底良かったと思う。


 地上二十八階から見下ろす風景は、灰色と黒の無彩色の世界だ。
 雪に覆われた世界はどんな暖かな色も白色に塗り潰し、既に通奏低音と化した
公害という言葉に象徴される黒に混じり、結局は灰色に落ち着いていく。
 この国では眩いばかりの銀世界を見る事はできない。
 あの厳寒の地で目の当たりにした、地平線いっぱいに広がるバージンホワイト
の雪原は、既に失われて久しいのだ。
 だが、こんな国でも雪が降れば嬉しいらしく、雪遊びに興じる子供達の話題が
報道されている。
 ふと考える。
 子供の頃、友達と外で寒さに真っ赤になりながらも遊んだ事があったろうか。
 覚えがない。
 遡れる限りの記憶の過去には、どこにも遊びに興じる自分の姿はなかった。
 同年代の子供達と遊ぶより、当たり前のようにあったパソコンと対話していた
ような気がする。
 幾重にも折り畳まれた秘密のスペル。
 命令した通りに走り出すプログラム。
 したくもない莫迦げた遊びにつき合うより、いつもきっちりとした答えの出る
機械相手の方が余程楽しかった。


 それにしても遅い。一体スネークはどこへ行ったのだろう。
 差し当たって、必要なものはなかった筈だ。
 備えつけのポットから、少し温くなった珈琲を注ぎ淹れる。
 まだ雪は激しく降っていた。
 心配の波が静かに、音もなく、僕の心に打ちつけ始める頃比
 結局はいつも杞憂に終わるのだが、その間隔が最近かなり短くなってきている
ような気がするのは、本当に気のせいなのだろうか。
 ……少々、自信がない。


 静寂に満ちた部屋の中に、その音は破壊槌のように大きく響いた。
「――!!」
 息を呑んで、僕は音の発生源――携帯電話を取り出す。
「もしもし?」
〔ああ、俺だ〕
 この瞬間、ほっとする。
「今どこにいるんだい、スネーク?」
〔済まんな、人混みが酷くて身動きが取れなかった〕
 微妙に避けた気配のある言葉。
 もしかして、僕に言えないような危険なところに行っているのか。
「スネーク?」
〔大丈夫だ〕
 僕の問いかけに、相棒は安心させるような囁きを返して寄越した。
〔今からちょっと出て来れないか?〕
「え――?」


 十五分後。
 僕は指定された待ち合わせ場所で、何故か来ていないスネークを待っている。
『呼びつけておいて、どういうつもりなんだか』
 いや、それとも、また混雑に巻き込まれているのかも知れない。
 この界隈は、ホテルの窓越しに見たよりも大勢の人で賑わっている。
 賑わうというより、滅茶苦茶だ。どっちを向いても、幸せ色に染まった人々が
笑い合い、喋り合いながら歩いていく――僕という異分子を追い抜いて。
 雰囲気を弥が上にも盛り上げる、電飾と音楽。道路縁では軽食を売る屋台まで
出ている。
 寒かったのでスタンドで珈琲でも飲もうかと思ったのだが、敢えなく断念した。
皆考える事は同じだと見え、とてもではないが買えそうにない。
 とにかく、人、人、人だった。
 だが、そんな楽しげな雰囲気を見ているだけでも飽きなかった。
《他人》といえば、敵と味方にしか塗り分けられない荒んだ生活をしている身に
とっては、余りにも遠過ぎる光景だったからか。
 だが、羨むまい。
 僕にとっては――そして、スネークにとっても――《日常》とは、今見ている
この景色の事ではない。


 そして、短くはない時間が過ぎ……


「……ハル」
 いきなり後ろから声をかけられる。
 そうきたか。
「もう、遅いよ。凍えそうだ」
「済まん」
 ちょっと照れたような――それとも、ただ単に寒いだけなのか――いつもより
上気した感のある、相棒の端正な顔。
「こっちだ」
「??」
 促すように腕を取り、連れていかれる。
 人の流れも同じ方を向いているようだ。
 やがて見えてくる、巨大な樅の木。
 その下では御子生誕の寸劇らしきものが行われており、周囲を取り囲むように
して大勢が見物している。
「へえ……」
 僕の感嘆符はその寸劇ではなく、珍しいものを見せてくれる気になった相棒へ
向けたものだった。
 去年も、一昨年のクリスマスも、アラスカの隠れ家でひっそりと迎えていた。
格別の感慨もなく、勿論二人で祈りを捧げはしたが――果たして、天上の大神が
罪深い僕の願いを聞き届けてくれるかは大いなる疑問だ。
 場面は受胎告知だった。
 聖母マリアが天使からお告げを受ける、あの有名なシーンだ。
 皆の視線が出演者に注がれている。あとからその輪の中に入った僕達は、半ば
影になったところで人の間から見ていた。
「……あ、あれ、ス――ディヴは見ないのかい?」
 ふと、相棒がどんな表情でその演劇を見ているのか気になり、横を見ると。
「俺には……眩し過ぎるからな」
 スネークは黙って僕を見ていた――そんな淋しい言葉を囁いて。
 まるで神の力に触れた魔物がその身を焼かれ、苦悶するような表情。その胸の
内に去来するのは、今までその手に殺めてきた多くの人間達の顔なのだろう。
「ディヴ」
 僕は、だらりと下げられていた相棒の掌をそっと握り込んだ。
 哀しみに冷え切り、強張った指先。
「君は……心ある人間だよ。僕はちゃんと知っている」
 この腕は、ただ哀しみと不幸を撒き散らすだけのものではない。
 いつでも僕を、そして多くの何も知らない人々を護り続ける、寡黙な守護者の
腕でもあるのだ。
 誰が何と言おうとも僕はその事を知っているし、また信じてもいる。
「………有難う、ハル」
 ふいにスネークの顔が近寄せられる。
 あっと思う間もない。
 微かに、触れたか触れないか。
 それは本当に一瞬の事で。
 他人が見ても、何か耳打ちしたようにしか見えなかっただろう。
「――……」
 僕は酷く狼狽えた。
 スネークが、こんな大勢の人のいる場所でそんな真似をするとは露程も思って
いなかったのだ。まさか雰囲気にあてられた訳ではないだろうが……それとも、
結構ロマンチストなのか。
 何事もなかったかのように戻される顔。
 そっと放される手。
 先刻と違うのは、触れ合った指先の仄かな温かさ。
 君の左手の薬指と僕の右手の中指が少しだけ触れたままでいて、互いの体温が
ゆっくりと伝わっていく。
 それは何だか酷く安心する温度だった。


 寸劇が終わり、人々が三々五々、散っていく。
 残された樅の木。かけ回された電飾が色とりどりに、ひと際華やかに、そして
一抹の淋しさを残して煌めいている。
「また来年も見られるといいね……」
「……ああ」
 本当にまた見られるといい。
 こうして二人揃って、この同じ場所で。


 深更を回り、益々気温も下がってきた。
 家路を急ぐ人の流れ。
 僕達もそれに逆らわず、歩き出す。
「メリークリスマス!」
 ホテルに帰ればドアマンがにこやかに扉を開けてくれながら、そう声をかけて
くれる。
「ああ、有難う」
 フロントで鍵を受け取り、互いに無言のまま部屋へ戻る。
「で――?」
 無言ではあったが、ずっと何か言いたげなスネークの様子に気付いていた僕は、
彼が話しやすいよう水を向けてみた。
「ああ……大した事じゃないんだが……」
「うん?」
 無造作に手を取られ、その上に彼の手が重なる。
 除けられたあとには、小さな煌めき――簡単に掌に握り込めてしまう程の。
「え? これって……」
 茫然と僅かに上にある相棒の顔を見上げれば、この上もない仏頂面をしている。
「やる。持っててくれるだけでいい」
「……持ってるだけでいいのかい?」
「………………………」
「嘘だよ。大事にする」
 いくら鈍いと言われている僕でも、これが何を意味するものかくらいは解る。
「君のは?」
 照れくさげに、襟元から引っ張り出して見せるスネーク。ドックタグと一緒に
光っているのがちらりと見えた。
 あの方法はいいかも知れない。服の中に隠れていれば余計な詮索をされる事も
ないし、何より手の動きを制限されないのがいい。
 それよりも、一体どんな顔をしてこれを買ってきたのだろう――我が愛すべき
相棒は。


「……有難う、スネーク」


 瞳を閉じて、天使の口接けを君に。
 握られた掌と併せられた身体の間に、君の願いと僕の祈りとが淡く光っている。
 僕にも大天使の翼があればいい。
 この一時だけでも、君が安らえるように。
 ――今この時だけは、全ての辛さも痛みもしまっておいて欲しい。



    今日の善き日に栄えあれ
    君が願いは我が内にあり
    今日の善き日に幸いあれ
    尊き主もみそなわし給う



 明日にでもチェーンを買ってこよう。
 君と僕との約束の印をかけるために。





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