Gulfstream


 最悪の瞬間。
 全てが色褪せ、あらゆるものが意味を失い、息すら満足にできず……
 ただ消えていく温度を腕に抱きとめるしかなかった、あの時。
 自分で言うのもおこがましいだろうけど、あの極限状態の中では良くやった方
だと思う。
 尤も、相棒の厳しい叱咤がなかったならどうなったのかは推して知るべしだ。
 一度では到底運び切れないと思われた人質を、とにもかくにも全員安全な場所
まで送り届け、二手に別れたらしいスネークと雷電の補佐をし、結果を最後まで
見届け。
 全てが終わってからも、悲嘆に暮れている暇などなかった。
 何もかもが嵐のように僕達を襲い、否応無しに引っ攫い、そして過ぎていく。


 ――気がつけば、あの日から数週間が過ぎようとしていた。


 手の中の小さな写真立て。いっぱいの笑みを浮かべる彼女。
 神ならぬ身の彼女は自分の未来に何が降りかかるのか、全く知らない。
 その微笑みが楽しげであればあるだけ、僕は思考実験の泥沼へと墜ちていく。
 恐らく僕が傍にいたからといって、結果はそう変わらないだろう。
 スネークも雷電も、最善を尽くしてくれた事を疑うものではない。
 それでも、考えてしまうのだ。
『モシモアノトキ ボクガソバニイタノナラ ナニカガ カワッテイタノデハ 
ナイノダロウカ?』
 くり返し、くり返し襲ってくる後悔。
 その波に飲み込まれるように、全ての感情が凍っていく。
 僕は小さく吐息をつくと席を立った。
 曇天の空は奇妙に暖かそうに見える。鈍色の雨雲が厚く垂れ込め、思い出した
ように舞い散る木の葉も、まるで遊んでいるように風に押し流されていく。
 冷たい風もいっそ心地好い。
『あの時には哀しむ暇も、立ち止まっている余裕もなかったけど……』
 こうして全てが終わったのだからといって、ではすぐに哀しみに浸れるものか
というと、そう簡単には切り替わらない。
 まるで、感情そのものが枯渇したようだ。
 普通の生活を装ってはいるが、決められた動きをなぞっているだけで、僕には
既に意味をなさないものになっていた。
 意欲も感動も、全てが情報の信号の中に埋もれ、まるで他人事のようだ。
 一昨日くらいからは外出もしていない。
 機械的に起き、ケータリングで取った食事を済ませる。
 惰性で情報を集め、めぼしいものは本部へと送信する。
 ただ、そのくり返し。
 出頭命令が何度か来ていたようだが、億劫で返事すら出していない。
 どうせお尋ね者の身なのだ、なるようになれという自棄的な考えになっていた
のは否めなかった。
 手の中の、物言わぬ小さな写真。変わらない――変わりようのない笑顔。
 その笑みが酷く痛々しいものに思える。これは、ほんの数年前のものなのだ。
 不意に襲ってくる痛み。
 だが、僕には苦痛から逃れたり、哀しみに背を向けたりする権利はない。
 そうしたくとも、彼女には二度とできないのだから。


 何とも表現しようのない感情が、心の底に澱のように凝っていく。
 吐き出した息が熱い。
 その熱を払いたいと思っても、どうしようもない。これは己に科せられた煉獄
なのだから。
 僕にできる事は、ただ物理的に体温を下げる事くらいだ。
 殆ど水に近いシャワーを浴びていると、またEEの事を思い出す。
 連れてはいけない。
 その冷酷な判断を下したのは――他でもない――この僕だ。
 結果、彼女の墓標の下には何もない。
 幾許かの想い出の品と、記憶だけが眠る場所。
 彼女を構成していた全ての物質はあの海の底、プラントと共に沈んでいる。
 生きている人達を助けるためには仕方のなかった事だ。
『仕方がない、ね……』
 頭上から降り注ぐ水に半ば息を塞がれながらも、嗤笑する。
 目尻を、頬を伝うのは温かい涙ではなく、単なる水だ。
 目蓋を閉じ、ゆっくりとその感触を追う。
 とめどなく、まるで涙のように流れ落ちる水滴。
 本来流すべき涙で苦しみと哀しみを癒せるものなら、僕は二度と涙を流しては
いけないと思う。
 これは罰だ。
 彼女を助けられなかった事も、その身すら置き去りにしなければならなかった
事も。僕は一生――恐らく、それ程長くはないだろうけど――この罪を背負って
歩いていくべきなのだ。
「エマ……」
 いまわの際に呼んでやれなかった名前を呟く。
 僕は楽になりたいのだろうか。
 楽になるためにあがくのか、それとも苦痛を感じる事で、こうして生きていく
のを実感するのか。そうまでしても、僕は生きていたいのか。
 ――無論、死んでみせたところで、何が変わる訳でもないのだが。
 その浅ましさに、覚えず、笑いの残滓のようなものを唇に刻む。
 その動きで鼻から僅かに水滴が入り込み、僕は小さくむせた。
「オタコン!」
 いきなり扉が引き開けられる。
 え、と振り返る間もなく、僕は勁い力でシャワーの下から引きずり出された。
 げほごほと噎せながら、今ここにいる筈のない人物の顔を見詰める。
「す、スネーク、どうしたんだい?」
「それはこちらの台詞だ!」
 激しい剣幕で遮られ、バスタオルで乱暴に水滴を拭われる。
「一体何の真似だ! 風邪を引きたいのか!?」
「大袈裟だなぁ。大丈夫だって」
 そう言いつつもこうして冷たい水の下から出され、温かい腕に半ば抱えられる
ようにされると、自分が酷く冷え切っていた事に気付かされる。
「泣くならもっと他にやりようもあるだろう」
「泣く? 泣いてなんかいないさ」
 それはあの日あの時、あの場所へ置いてきてしまった。
 今の僕にはそんな資格などない。
「オタコン……」
 スネークの表情が、何か酷く痛ましいものでも見たかのように歪む。
「僕は大丈夫だよ」
 本当に平気だから、そんな心配そうな顔をしないでくれ。
 やんわりと抱えられたままの腕を外し、脱ぎ捨てられたままの服に袖を通す。
 どうにか人間らしい体裁を整えたところで振り返る。
「今日は一体どうしたんだい?」
 何か緊急の用件でも――?
 と続く筈だった言葉は、しかし中途で跡切れた。
「き、君ってば、何だか変だよ」
「………」
 のけぞる程身近に抱き寄せられ、僕は些か狼狽した。
 力一杯という程の力ではない。もし僕が本気で抵抗すれば、あっさりと解ける
くらいの、それは微妙な力加減だった。
『僕は、安寧を求めてはいけない』
 彼女を差し置いて。
 その犠牲の上に知らぬふりを貫き通して――!!
 一瞬の躊躇の後、振り解こうとした腕をそっと抑えたスネーク。
「オタコン、とにかく一緒に来てくれ」
「どこへ……?」
 温かく、勁い腕の中にいると、忘れようとしていた暗い情動が身動ぎする。
 胸の裡、咽喉の奥から久しく忘れようとしていた熱いものがこみ上げてきて、
僕は俯いた。
「俺の隠れ家だ。お前さんは暫く休養を取った方がいい」
 してみると、本部からの再三の召還は、この件だったのだろう。僕が余りにも
返事をしないものだから、痺れを切らして直にスネークを送り込んできたという
ところか。
 けれど、一つ疑問が残る。
「何故、君のところへ?」
 休養を取るなら、選択肢は他に幾つもあった筈だ。
「俺も長期休暇だ」
「こ、答になっていないよ」
 声が震えはしなかっただろうか。
 スネークの返答を聞いた時、僕は素直に嬉しかった。
 どうして、と問われると返答に窮するのだけれど。
「あっちに必要なものは全て揃っている。すぐ出られるか?」
 らしくもない性急さだ。けれど、その時の僕は大して不審にも思わずに、彼の
許に身を寄せる事にしたのだった。


 後日、鈍いにも程があるだろうと散々揶揄われる事になる。
 それが、全ての始まりだった――





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