黄金の日々


「ジェス? ジェース!」
 遠くから相棒が仔猫を呼ぶ声が伝わってくる。
 俺は目を瞑ったまま、僅かに口の端を持ち上げた。
 一体樹齢がいくつになるのかは知らないが、巨大な針葉樹の根方に寄りかかり、
ゆったりと休息を取る“俺達”。
「ジェス、どこだい?」
 呼ばれた当人は、といえば、俺の腹の上で小さく耳は動かしたものの、熟睡の
姿勢を崩さない。大好きな飼主の呼ぶ声より、今は眠気を優先する構えのようだ。
 さやさやと、葉ずれの音が雨のように注いでくる。
 暫く振りの休暇だった。
 お腹もくちくなり、飲みかけの珈琲の香りが所在なげに漂っている、穏やかな
夕刻。僅かに黄金色を帯びた陽光が、ほんのりとぬくみを与えてくれる。
 ここの大気は、都会のそれとは成分からして違うようだ。
 ゆっくりと深呼吸する。
 針葉樹の吐き出す爽やかな青の匂いと、もうそこまできている秋の馨しい薫り。
そして、やがてくる冬の凍気がもたらす鋭い気配。
 腹の上の仔猫は急に揺れた足場に薄目を開けたが、そのまま俺が動く気のない
事を確かめると、また居心地の良い場所を探して目を閉じた。
 何故かこいつとは最初からうまが合った。
 お互い、過度に干渉はしない。気が向いたら構ってみる。そういう姿勢でいた
のが良かったのか、こうして甘えてくる事も多い。
 安心し切ったようなその顔を見ていると、また眠気が襲ってきた。
 微睡みと覚醒の狭間を漂いながら、ただ穏やかさだけを感じていると。
「あ、こんなところにいたんだ」
 不意に顔に影が落ち、俺は我知らず笑みを浮かべた。目を開かなくとも、傍に
いるのが誰なのかは全身の感覚が教えてくれる。
 戦いの中で、戦友に背中を預けられる感覚とは似て非なるもの。
 だが、より一層愛おしく失えないもの。
 血の繋がりのある者達とは一番遠く、愛した筈の女性とは幻想でしかなかった、
その距離感。
 既に使い古され、陳腐化してはいるが、この感情を表わす言葉を俺は一つしか
知らない。
 静けさを壊さぬよう、俺はそっと薄目を開けた。
 ふわりと微笑む口許。斜めに射し込む陽光を背景にした彼は、その身にまるで
黄金色の炎をまとっているようだ。
「ハル……」
 未だかつて、誰もここまで入ってはこなかった。
 そして、誰にもここまでは踏み込ませなかった。
 こうして身の内に、何の抵抗もなく収めてしまえる幸い。
「ジェスも一緒だったんだ」
「ああ」
 こちらも返事をするかのように、また耳をぴくりと動かす仔猫。
「ふふ。すっかり枕だね」
 笑いながら隣に腰を下ろし、薄く汗をかいたグラスを傾ける。
 その表情は疲れてはいるが、意外に明るい。どうやら無事に片付いたようだ。
「一段落ついたのか」
 労いの意味も込めて軽く腕を叩く。
「まぁね」
 美味しそうにグラスを半ば空にしたあと、得意げになるでもなく頷く。
「ちょっと手こずったけれど、結果オーライという事で」
 相棒にとってそれは“完了した”という、単なる事実なのだろう。
 俺には解らない途中経過にかかった苦労は、彼の中では何程の事もないらしい。
「わざわざ休暇中にやる事もあるまいに」
「うーん……これはもう性分としか言いようがないよ」
「お前さんらしいな」
 この頭脳から俺には考えもつかぬ事を生み出し、そして成功させる相棒。
 誰も、想像だにできないだろう。
 この、人畜無害以外の何者にも見えない男が、あの、とんでもないものを造り
上げた人間と同一人物なのだとは。
 今もぐっすりと眠り込んでいる仔猫を撫でながら、ただ微笑んでいる――その
微笑の下に、直接関わった者だけにしか解らぬ深い悲哀を隠して。
 だが、それは一瞬の内に消える。錯覚だったのかと思う程、鮮やかに。
「そういう君こそ、武器の手入れは絶対に欠かさないだろう?」
 こちらへ向けた顔は穏やかで、哀しみの影すら見えない。
 知らぬ者が見れば、何不自由なく幸せに暮らしてきたのだと信じ込めそうな、
それはそういう表情だった。
 思わず抱きしめたくなる。
 時には、お前さんもそれを望んでいるように見える事もある。
「あれは己の生命を託すものだからな。大体、それとこれとは話が違うだろう」
「おんなじだよ、僕にとっては」
 普段見慣れない下からの目線で見た相棒の表情は、僅かな疲労に茫洋としては
いたが、瞳の力は驚く程勁かった。
 腕の中に囲い込み、俺だけを見させようか。
 いっその事、目蓋を閉じさせてしまおうか。
 俺の存在だけしか感じられないように――
「何だよ、そんなにじろじろ見詰めて」
 不意に視線が交わる。
「あ、いや……」
 咄嗟に苦笑で誤魔化したが相棒にも何か感ずるところがあったのか、逸らした
目元が赤いような気もする。
 武器を振りかざすしか能のない俺などには到底真似のできない方法で、様々な
困難を克服していく。
 素直に凄いと思う。
 その男を相棒と呼べる事に、そして相手からも得難い友人と思って貰える僥倖。
 だからこそ、単なる慰め合いはしたくない。
 照れ臭いのでまともに言えた試しはないが。
 暫し沈黙だけを友に、俺は無言で暮れていく空を見上げていた。
 針葉樹の香が、徐々に宵の匂いに包まれていく。
「……静かだね」
 漸く起き出してきて甘え始めた仔猫を構ってやりながら、ぽつりと呟く相棒。
「ああ」
 都会の喧噪から隔絶されたこの地では、人間の奏でるあらゆる物音が遠い。
 時計もない、電話もない。
 相棒の所有するパソコンの電源も切ってしまえば、徐々に弱くなっていく陽光
を除き、その経過を示すものは何もない。
 不意に物理的な寒さではない、骨の髄まで凍えそうな冷気を感じる。
 今日が過ぎ明日が来て、そしてどこまで共に歩んでいけるのだろう。
 過ぎ去りし日々は二度と還らない。
 今は一瞬たりとも停めてはおけない。
 来る未来を見通す事は誰にもできない。
 何度も自問し、その度に思い知らされる。
 変化のない日々を心底欲した事もあった。
 だが、それは生きながらにして全てを放棄した、廃残の自分を思い知らされた
だけだった――座して緩慢な死を待つだけの俺を、彼が解放してくれるまでは。
 僅かに触れる肩が温かい。腹の上に寝そべったまま甘えている仔猫の体温も、
小さくとも強く生きている証だ。
 俺は、この温かみさえ忘れなければいい。
 何と簡単な事だったのだろう。
 そして、単純過ぎたが故に、どれだけ遠回りをしてきたのだろう。
 不意に射し込んできた夕陽に目を細める。
 俺の表情に何を見たのか、相棒はそれ以上何も言わなかった。
 あの日、浄水施設で見た夕陽も、それは見事な耀きを残して沈んでいった。
 恐らく相棒も同じ事を思っている。
 そして、それを新たな誓いとして胸に刻み、前進する原動力に変えている筈だ。
 名残を惜しむかのような残照。
 夜の色に染まった雲が靉靆と棚引き、ゆっくりと宵闇が降りてくるに従って、
光からも温もりが消えていく。風も冷たくなってきていた。
「いつまで……」
 ぽつりと呟いた相棒の声に横顔を見れば、藍色に染まった哀し気な目がこちら
を見ていた。
「………」
 殆ど無意識の所作なのだろう、仔猫を優しく撫でながら、相棒の瞳はまた残照
を追い始めていた。
「君と二人で長い時間一緒にいて、こうして空を見ていると思うんだ……」
“いつまで共に戦い続けられるだろう?”
 それは、俺達の間では禁句だった。
 互いにはっきりと自覚しているからこそ、言葉にできないその一言。
 こんな稼業に身を窶していれば、いつ何時、どうなるか判らない。
 今こうして見上げた夕陽も、いつか戻らぬ遠い想い出になるのだろう。


 願わくは、その日の遅からん事を。


「そろそろ戻るか」
 空になったグラスを取り上げ、仔猫を抱き締めたままの相棒へ手を差し出す。
「あ、うん」
 夢から醒めたように瞬きしたハルは、俺の手を取り立ち上がった。
 お前さんはひ弱だからな、風邪でも引かれちゃ困る。
 茶化すように言ってやると、思った通りの苦笑が返ってくる。
 二人でゆっくりと並んで歩く。宿泊しているロッジまでは、それ程遠くない。
 明日にはここを引き払い、また移動の日々が始まる。


 黄金の色をした残照の最後の煌めきが山の端に隠れ、辺りは森閑とした静寂に
包まれ始めていた――





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