漆黒


 今日も外は雪だった。
 見渡せば、どこまでも続く銀灰色。
 結晶の立てる、銀鎖にも似た細かな音。
 それに、触れなば切るといわんばかりの温度。痛みすら覚える。
 吐く息すら片端から凍っていく。
 それは、心の臓には酷く堪えるものだった。勿論、精神状態にも。
 この時期は、いつもそうだ。
 表面上は普通にしているつもりでも、気がつけばまた視線が宙を彷徨っている。
 別に物思いにふけっている訳ではない。寧ろ、何も考えていないといった方が
いい。気を抜くと、すぐにそうなってしまうのだ。
 一応飾りのように膝上に置いた雑誌も、先刻から頁をめくるのすら億劫で放置
していた。
 寝台から起き上がれないという程ではないが――ありったけの精神力を総動員
しておかなければ、日常生活すらまともに熟せないまでに無気力になる。一時期
所属していた傭兵部隊の医療部に診て貰った事もあるが、これといった対処法も
見つからず、どうしようもなかった。
 激しい緊張と人の生命を殺め続けるという行為が、見えないところで多大なる
ストレスを与えているのは解っている。
 今更戦場を逃げ出したところで、この身に食らいついた死神を振り解ける筈も
ない。皮肉な事に、この恐ろしい程の虚脱と無気力から脱するのに一番いい環境
はただ一つ――戦場だった。
 だが、好んで戦いに身を投じるような真似だけはしたくなかった。
『それでは本当の死神になってしまう。いや、今更なのか……』
 微かな物音と共に、唯一傍にあるのを許した気配が近付いてくる。俺は虚ろに
梁を眺めていた視線を、無理矢理もぎ離した。
 どうせ眺めるなら相棒の方がいい。
 半開きになった扉の向こうを透かし見る。
“スネーク……”
「………」
 鮮やかに甦る声と姿。
 幻の彼が、微笑んで紅茶を持ってくる。
 そう、彼さえいてくれれば、ここまで漆黒の闇に墜ちはしなかった――
 俺は徐々に狂ってきているのか。
 それとも、正気に返ってきているのか。
 情けないが、これが今の俺の姿だ。どんな励ましも同情も受け入れられない。
過度の干渉も気分をささくれ立たせるだけで、何の意味もない。
 決して拒否したい訳ではないのだが――寧ろ、あんな悪夢を見たあとでは傍に
いて欲しいくらいだったのだが――この精神状態では何を口走るか判らない。
 早く出ていってくれという叫びと、傍にいてくれという悲鳴が全く同じ強さで
心の中に響く。俺は苦痛に歪む顔を見せたくなくて、扉に背を向けた。
《彼》は、暫く痛ましげに俺を見詰めていたようだった。
 それからまた扉をくぐって気配が遠くなった。
 どんな些細な動作も表情も、いつでも鮮やかに思い出す事ができる。
 ハル、お前がいない。それが……こんなにも苦しい。
 沈黙だけが帳のように重く落ちていた。
 穏やかなそれではなく、何か奇妙な緊張をはらんだ静けさ。
 その原因が俺自身なだけに、救いようがない。
 焦燥感だけが募る――何に対してのそれ、なのかは良く解っていたのだが。


 大気からは凍気に醸された針葉樹の、仄かに甘苦い香がした。
 日はどんどん短くなり、気温は転落するかの勢いで下がっていく。
 やがて来る筈の春に備え、何もかもが凍りついたまま眠りに就く時。
 たった半日で軒下まで埋まるような豪雪。何日も閉じ込められる事など、実際
珍しくもなかった。
 昼間なのにまるで夜のような暗さの中で、俺はオイルランプの灯を頼りに銃の
手入れをしていた。
 何かしていれば、少しは気が紛れるかも知れない。そんな儚い希望から始めた
事だったが、手慣れた作業を決まった手順で熟している内、少しはましな気分に
なってきた。
 ちらちらと揺れる光。
 窓から射し込んでくる筈の淡い冬光も、今日ばかりは全く感じられない。雪に
すっかり降り込められ、既に採光の役を果たしていないのだ。
 いつもなら、晴れたところを見計らって掻き除けるのだが、流石にそんな気力
までは戻っていなかった。
 普段は意識にも上らない呼吸回数が、まるでカウントダウンのように耳に轟く。
 一体、何のカウントだ? 死へのか、それとも罰への?
 どちらでも構わない。
 間違っても相棒の許を騒がせなければ。
 机の上に広げた細かな部品を一つひとつ愛おしむかのように確認し、元通りに
組み立てていく。
 ばらばらの部品では意味をなさないものが、一つの武器として完成する。
 こうしてまた俺の手に戻るそれ。
 軽い手応えと共に装填される銃弾。
 新たな恐怖と悲哀をまき散らすモノ。
 ――どれだけ苦痛に満ちていても。
 そう、どんなに痛みを伴おうとも、思い出せない辛さに較べれば。
 生命の終わる時までこの痛みを抱え続け、いつか最期の吐息をお前の微笑みで
受け止めてくれればそれでいい。
 確かにそう思っていた。
 いや、今もそう思っている。


 だが、もう一つ、方法が残ってやしないか?
 闇の中、どこまでもどこまでも堕ちていく。


『将に堕落だな』
 俺は苦笑を浮かべ、後ろの気配にポイントした。
“スネーク……?”
 軽く揺らいだ気配。まだ恐怖ではない。
 茫然としているのだろう気配は、その場を動いていなかった。
 席を立ち、俺は殊更に時間をかけて振り返る。
 相変わらず細い。
 目を眇めてその全身を見詰める。
 くしゃくしゃになった髪、よれよれのシャツに履き古したジーンズ、その手に
しているのはトレードマークの感もある銀色のノートパソコン。
 変わらない。
 想い出の中そのままの、俺の相棒。
 彼はどんな表情で俺を見ているのだろう。絶対の守護者から殺戮者に変わった
裏切り者の顔を。
 その面に浮かぶ感情を早く見てみたいような、ずっと見たくないような、一種
奇妙な気分に支配されたまま、ゆっくりと視線を下げていく。
“………”
「………」
 睨み合い、とも取れない視線の交錯。
 恐らく、今の俺は無表情な筈だ。
 その視線に捕えられて、恐怖以外の情動が浮かぶ筈はない。そう思っていた。
“……スネーク、僕だよ”
 記憶にある通りの、柔らかな声。
 その顔は、笑っていた。
 将に満面の笑み。全身から嬉しくてたまらないといった喜びが見える。
「………」
 この状況では普通、人は怯えるか逃げ出すのではないだろうか。
『ああ、そうだ。ハルは人じゃない』
 生きていないのに存在する者は、既に人とは呼べない。
 だったら怯えないのも道理だ。
 奇妙に納得できた。
 幻でも何でもいい。ハルが目の前にいる。
 俺は幸せ者だ。最期に、笑った顔の相棒を見られた。
 意識せずに唇が笑みを刻む。
 今度こそ銃口を向け直す、真に撃ち抜きたかったものへ。
 まるでそれを合図としたように、無造作にパソコンをソファに放り捨てた相棒
が、楽しげに笑ったまま歩み寄ってきた。
 俺は木偶のように銃を構えたままだった。余りにも嬉しそうな彼の様子に目を
奪われていたからだ。
 邪魔だよ、というように銃口が逸らされる。
 次の瞬間、俺は懐かしい相棒の腕の中、その榛色の瞳を覗き込んでいた――

 本当に銃口を向けたかったのは俺の相棒にではなく。
 腑甲斐ない己の心臓……

「――?」
 誰かが呼んでいる。
 いつの間に眠ってしまっていたのか。
「スネーク?」
 そっと揺り動かされ、俺は目を開けた――溺れた者が漸く息をする事ができた
かのような深い吐息をついて。
「大丈夫かい?」
 漆黒の闇の中、あれ程希い、望み狂った相棒の線の細い肢体がまるで当たり前
のように視界に飛び込んでくる。
『夢……? それとも、これこそが、虚構なのか?』
 まだ眠りの残滓がしっかりと全身を絡め取り、どこからどこまでが現実なのか、
それすら判然としない中で身を起こす。
 微かに香る針葉樹林の薫りだけが、記憶と寸分違わなかった。
 それに、間近に感じる相棒の体温。
「酷く魘されていたけど、どこか具合でも――!?」
 俺はものも言わずに相棒を抱きしめた、というより縋りついた。
「ス――ディヴ?」
 子供のような真似をしていると、自分でも良く解っている。だが、どうしても
目の前の相棒の存在を確かめねば、気が済まなかった。
 閉じた腕の中、骨の軋む感触がする。くぐもった苦痛を堪える声が聞こえたが、
俺は力を抜けなかった。
「ハル……ハル……」
 譫言のように相棒の名を呼びながら、確かに脈打つ心臓の鼓動に唇を当てる。
 確かに鼓動する、何より大切な生命がここにある。
 生きて、俺の腕の中にいる。
「………落ち着いて、ディヴ。僕はここにいるから」
 そう、これが現実。
 あれこそが、悪夢。
 夢に怯えているなど、笑い話だ。
 だが、どんな攻撃よりこの夢は俺に痛撃を与えた。
 今日のところはこれは一夜の夢、恐ろしい内容には違いないが、結局はただの
《夢》で済んだ。
 だが、この《悪夢》はいとも容易く《現実》に変容する。
 遠い未来か、ひょっとして数分後かも知れない。確実に来る容赦のない《現実》
の一つの側面なのだ。


 まだあの《夢》の中の《現実》が俺を苦しめる。
 闇の中、朧に浮かび上がった顔へ手を伸ばした。
 ――手加減はできそうになかった。





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