Before the Dawn


 俺はゆっくりと杯の中身を口にした。
 咽喉奥を焼くウィスキーの強い刺激と、あとを追うようなドライベルモットの
爽やかな味、そして僅かに感じるカンパリの苦みに吐息をつく。
 うまい、まだそう思える事に感謝する。
 時計の針は、二十七時を大きく回っていた。
 改めて、もうそんな時間になっていたのかと思う。過ぎる疲労のせいで、余り
眠気が差してこない。どうやら、身の裡に燠火のように燃え残った緊張と興奮が
アルコールで解され、鎮められていくのを待たなければならないようだった。
 だが、それは決して不快な感覚ではなかった。
 両掌の温度を伝えているグラスの中で小さく氷が動き、涼しげな音を立てる。
微かな酔いのもたらす浮遊感と共に、鼓動が慎ましく体内に響いているのを聴く
――生きている確かな証を。
 灯をしぼった室内は静けさに満ちていた。かち、かち、と秒針の進む音だけが
時折大きく耳に飛び込んでくるだけだ。
 見詰める内に、緩やかに融けていく氷がまた位置を変える。
 僅かに薄まったせいなのか、口に含んだそれはやけに甘く感じた。
 空になったグラスを置き、ずっと氷に向けていた視線を巡らせる。
 傍らにはすっかり夢の旅路を辿る相棒が、やや斜めになって座っていた。その
には疲労の色が濃い。それも無理はなかった。
『相変わらず、無茶が過ぎたな……お互いに』
 だが、途中経過はともかく――最終的には、かなり力押しの感もあったが――
今日もまた、こうして無事に夜を過ごしている。


 どれだけ危険な目に遭おうとも構わない。
 その行為が誰にも知られなくとも、相棒にさえ理解されていれば、それでいい。
 彼に労いの言葉を貰えば、それが何よりの報酬になる。
 自分が随分とお手軽な性格をしていた事に気付き、俺は小さく笑った。


 殆ど無意識の所作で手を伸ばす。触れた頬は僅かに熱かった。
 ほんのり上気した頬。そこへ伏せられた睫毛の陰影が乗る事で、淡い光源の中、
その窶れた面がやけに危うく見える。酔いのせいだけならいいのだが、発熱して
いるのかも知れない。
 表情を窺うが、苦しそうな様子がない事に安堵の吐息をつく。
 眠りの縁に佇みながら、それでも危なっかしくグラスを手に持ったままの相棒。
このままでは、その内に落とすだろう。
 のんびりといった様子で船を漕いだ上体が、俺の方に凭れた。
 相変わらず、これが同じ男かと思う程軽い。
「ハル――」
 囁いてみるが、目を醒ます様子はない。
 楽な姿勢になるように肩を抱き支え、そっとグラスを取り上げる。一瞬、力の
入った指も、俺が宥めるように触れるとあっさり開いた。
「………」
 思わず笑みをこぼす。
 耳許で響いたそれが擽ったかったのか、軽く首を竦めた相棒は何か呟くと更に
深く身を預けてきた。
 子供のようだ。そう思いながらも、こうして自分にだけは安心して心を開いて
くれる、それが何だか面映かった。
 きちんと寝台に連れていった方がいい事は解っている。感覚的にいって自分も
そろそろ限界だ。
 だが、この穏やかな時間を壊したくなかった。軽く触れたままの相棒の体温を、
このまま感じていたかった。


 どこか遠くの方で車のクラクションが響き、つられるようにして犬の遠吠えが
聞こえてくる。相棒のほつれた前髪が、あるかなきかの風に軽く動く。
 そして、不意に俺は気付いた。
 何者かの視線を感じる。
『――どこだ?』
 緊張が全身を絡め取った。
 どこだも何も、狭い室内の事とて隠れられるようなスペースはない。
 窓にはシェードが下ろされ、僅かに開けられた廊下への扉の向こうにも人影は
ない――勿論、室内には二人分の気配しか存在してはいない。
 目を細め、更に周囲を探る。
 妙な印象だった。
 良く知っているような気もする。
 逆に、何か気付いてはならないような気もする。
 確かに、本能的に危険を感じはした。だが、同時にその相手がこちらに何かを
仕かける気もない事も解る。敵意というものが全く感じられない。
『誰だ……』
 腰に手挟んでいる銃を抜くのを躊躇ったのは、隣で眠る相棒を憚ったのもある。
だが、もし自分の想像通りなら、その《気配》には銃など効かない。
“相変わらず薄情だな、お前は”
 ぎょっとする程近くで《声》が聞こえ、俺は半ば予期しながら振り向いた。
「………」
 思った通り、そこには誰もいなかった。
 部屋の隅、周囲より僅かに濃度のある闇が小さくわだかまっているだけだ。
 だが、その声というか思念だけで、相手が誰なのか――それとも《何》なのか
という方がいいのか――解ってしまった。


 小さく名前を呼ぶ。
 大事な友人の名を。


 声に含まれる苦さに気付いたのか、相手は微かに笑ったようだった。
“元気そうだな”
「あんたもな――」
 今はもういない存在に向かって元気だな、などとというのもおかしな話だが、
声から受ける印象には不思議と張りがあった。
 やはり姿は見えない。
 幽かに伝わってくる気配だけが、あの時と変わらぬままそこにあった。
 自分の意識がおかしくなってしまった、とは思わなかった。
 曙光の声は未だ遠く、闇は尚深い。そんな時には何が起きても不思議はない。
限界まで体力を使い切り、夢とも幻ともつかない状況でその気配と相対している
事を、俺は素直に受け入れていた。
「一体どうしたんだ。急用でもあったのか」
 冗談めかしてそう言った俺は、腕に抱いたままの相棒を起こさないようそっと
身を起こし、予備のグラスにウィスキーを注ぎ入れた。目分量だったがカンパリ
とドライベルモットも足し入れ、かき混ぜる。
「良かったら飲んでくれ」
“有難う”
 自分のグラスにも入れ直し、軽く目線で合図する。
 生きて共にあった時からの、変わらぬ乾杯の合図。
 グラスの傍に、気配が集まったのを感じる。
 それはOld Palという名のカクテルだった。
 果たして、彼は気付いただろうか。
『まぁどっちでもいいが』
 面と向かって大事な友人だったなどと言える筈もない。そんな柄でもないし、
言われた方も表情の選択に困るだろう。
 尤も、感じるのは気配だけで、その姿も表情も窺い知る事はできない。
 俺はゆっくりと杯を干した。先刻よりきついアルコールが咽喉を滑り落ちる。
“その男が、今のお前の相棒か”
「……ああ」
 こちらの質問を無視した恰好になったが、どちらも気にしてはいない。
“大事にしているな”
 苦笑が漏れたのはほぼ同時だった。
「いや、どちらかというと大事にして貰っている方だな」
“……そうか”
 興味深げにというより、完全に面白がっている様子が伝わってくる。
 相変わらず、相棒は自分の事が話題になっているのも知らぬまま、熟睡体勢だ。
 先刻とは種類の異なる、穏やかな沈黙が下りた。
 殊更に言葉を連ねなくとも解り合える、緩やかな静寂。
 互いに相手が何を考えているのか、を指すように理解している。
 どういう状況に陥ればどんな精神状態になるのかも、とうに知られている。


 いつ果てるとも知れぬ不自然な生命。傷だらけの身体を引きずり、孤独のまま
明日にでも潰えるかも知れない恐怖。誰にも看取られぬまま、名も知れぬ野辺に
ただ屍を曝すだけの終焉――
 潜入中にあってはならない事だが、不意に集中力が途切れ、足許にぽっかりと
ひらいた精神の深淵を覗き込む自分がいた。


 だが、俺は幸せなのだろう。
 実際に孤独の時にそうなる確率は、かなり低いといっていいだろう。
 確かに寿命という点では人より短いかも知れないが、少なくとも己の生き様を
知り、孰れ確実にくるだろう死の所以を見届ける者がここにいる。肉体的な意味
での遺伝子を残す事はできなくても、精神は確実に次世代へ続いていく。
 有形無形のネットワークから、どこまでも自由奔放に繋がっていく、知識の
 もしもそれを見霽かす事ができる存在がいるなら、一つの大きな生命の樹にも
見える筈だ。
 その一翼をひっそりと担い、いつか変わる事を望みながら、俺達は前に進んで
いく。時に過去を振り返る事はあっても、決して後戻りする事はない。
 どこまでもどこまでも、ただひたむきに前進する。明快な答が出るかどうかも
知らされぬまま。
 今から十年後、百年後、或いは一千年後の世には、なにがしかの答が見つかる
のだろうか。


 不意に時を刻む秒針の音が大きく響き、俺は我に返ったように瞬きした。
 辺りは穏やかな静寂に囲まれたまま、薄暗い燈火の光も微かに吹き込んでくる
夜明けの風も、先刻と何も変わらない。
「心配しなくとも、俺はまだそっちにはいかんさ」
 今はもう気配のなくなったグラスへ向け、俺は手向けるように杯を干した。
 何故急に《彼》が俺に逢いにきたのか、解る気がする。
 戦いに明け暮れ、己を見失いそうになる事などざらだ。
 危うい均衡の上で必死にバランスを取っている、玩具の兵士。それが俺だ。
 恐らく、そんな俺の状況に見ていられなくなったに違いない。
 だが、どんなに危険な状況で自棄になりそうでも、傍らにはいつも俺を支えて
くれる腕がある。
 ――何言ってるんだよ、僕の方が色々助けて貰ってる。いつも有難う。
 相棒なら、間違いなくこう言うだろう。その表情まで想像できるだけに、胸の
裡が仄かに温かくなる。この男を相棒として活動している事そのものが、自分に
とっては一番の僥倖なのかも知れなかった。
 勿論、今はもういない彼も、俺の大事な親友である事には変わりない。
 そういえば、暫く墓参りにもいっていなかった。
『薄情な友で済まんな』
 そんな事はとうに知られているだろうが。
 墓地は、ここから三時間程離れた丘陵地帯にひっそりとある。
 ちょっとしたドライブも兼ね、久し振りにいってみるのもいいかも知れない。
勿論、相棒も一緒に。


 ――かつて友が愛した白い花を腕一杯抱えて訪れたなら、少しは薄情の言い訳
が立つだろうか。
 なあ、フランク?





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