Pussyfoot


    壱

 日課にしているジョギング兼、周辺の安全確認を終えて戻ってくると、何やら
楽しげな笑い声がする。
 誰かが来ている気配はなかった。
『電話、か?』
 しかし、ここの電話番号を知る者に、あんな笑い声を立てさせられるユーモア
の持ち主はいない。
「おい、オタコン?」
 何をやっているんだ。
 そう続く筈だった言葉は咽喉の奥でおかしな具合に引っかかり、俺は居間の扉
を開けたまま、辺りの惨状に愕然と立ち尽くした。
「あ、お帰りスネーク」
 相棒がにこにこしている、それはいい。
 最近稀に見るくらい御機嫌な様子だ、それも大いに結構。
 だが――
「お前さん、一体何をやらかしたんだ?」
 それとなく周囲を示してやる。
 まるで台風の目の中にいるようなオタコン。
 一体何をやればこうなるのか――大いなる謎だ。
「あ、いや、僕がやったんじゃないんだけど……ああ、でも間接的には僕のせい
でもあるのかな」
 何やら口の中でぶつぶつ言っているが、この恐ろしいまでに散らかった部屋の
様子にも、さして罪悪感を覚えているようではない。
「………」
 一体誰が片付けるんだ、この有様を。
 やれやれ、やはり俺なんだろうな。
 軽く溜息をつき、散らばった雑誌を拾い上げる。
「――!?」
 その山の中からひょっこりと顔を出したものがいる。
 白くて、ふわふわで、逆三角形の顔。
 ぴんと尖った耳にぴくぴく震えるヒゲ。
 薄桃色の鼻面が俺の指に近寄せられ、怯えもせずふんふんと匂いを嗅ぐ。
 ざらついた小さな舌が、ぺろりと舐めた。
「可愛いだろう? 君がジョギングに行ったあと、玄関先に迷い込んできたのを
見つけたんだ」
 俺の胡乱げな視線に気付き、慌てて庇うようにその仔猫を抱き上げるオタコン。
放っておいたら、俺がその猫を捨てにいくのではないかと心配する目だ。
 おいおい、俺はそこまで人非人じゃないぞ。
「面倒は……ちゃんとみろよ」
 俺は手にした雑誌を相棒の頭にぽんと当てると、珈琲を作りに台所へ向かった。
「お前、良かったね。いてもいいってさ」
 そんな相棒の声を背中越しに聞きながら。


 珈琲を淹れて戻れば、件の猫は図々しくもオタコンの膝の上に陣取り、力一杯
甘えている最中だった。
「ふふ、か〜わいいなぁ」
「ほら、こぼすなよ」
「ああ、有難うスネーク」
 思った通り部屋の中は乱雑なままで、相棒の興味はひたすら猫にしか行っては
いない。折角淹れた珈琲も、どうやら忘れ去られる運命らしい。
 忘れるといえば――
「なあ、オタコン」
「ん〜?」
 生返事の合間にも、仔猫の咽喉をくすぐってやったり背中を撫でてやったりと
忙しない。
「お前さん、今日は会議があると言ってなかったか?」
「ああーっ!!」
 驚いた仔猫が、ぴょんと飛び上がる程の叫び方だ。
 やはり、忘れていたな。
「送ってやる、五分で支度しろ」
 うわー、うわー、とスローテンポで焦り出すのを横目に、俺は車のキーを手に
ガレージへ向かった。


“僕がいない間、仔猫を頼むよスネーク!!”
“ああ、解った解った。遅れるぞ、早くいけ”
 何度も念を押し、オタコンはクライアントの待つビルへと消えていった。
『そんなに何度も言わなくても……まさか俺があんな仔猫を虐めるとでも思って
いるんじゃないだろうな』
 第一、いつもなら俺が車で送り迎えしてやると、必ずその表情や言葉で謝意を
表わす彼が、どうやら今日は全く、欠片も、浮かばなかったらしい。
 何も礼を言わなきゃ許さんという訳ではないのだが、ちょっと恥ずかしそうに
微笑を浮かべる顔を拝めなかったのは残念だ。
 部屋に戻れば、か細い鳴き声が聞こえてくる。
「ああ……鳴くな。ちゃんといるぞ」
 仔猫はオタコンが座っていた辺りの床にぺたりと身を伏せ、小さい躯で精一杯
声を張り上げて鳴いていた。
 俺の姿をちらりと見上げ、更に大きな声で鳴き出す。
「そんなに鳴かんでも、あいつはすぐに帰ってくるさ」
 言葉が解った訳ではないだろうが……仔猫は取り敢えず、鳴き続けるのだけは
やめる事にしたらしい。
 俺は今の内に現場の復旧作業に勤しむ事にした。
 取り散らかった様々なものをあるべき場所に納め、ついでに掃除機も使う。
 うっかり蹴飛ばしてしまわないよう、センターテーブルの上に避難させた仔猫
は置き物のようにちょこんと座り込み、俺のする事をきらきら輝く翡翠色の目で
興味深そうに眺めていた。
 換気も済み、置き去りにされたままだったカップも洗っておく。
 新たに淹れた珈琲を手に居間へ戻れば、今度はソファの上にちんまりと座って
いる仔猫だ。
 こちらを見上げ、一言鳴く。
 まるで、隣に座れと言っているようだ。
 苦笑した俺は踏んでしまわないよう、少々隙間を空けて腰を下ろした。
 早速とばかり、仔猫が膝によじ上ってくる。
「何だ、俺にも遊べというのか?」
 仔猫の瞳が一段ときらきらしたような気がする。
 指先をそっと目の前に持っていってやると、一生懸命捕まえようと小さな前足
を伸ばす。
 引っかかないよう爪を引っ込めているところは、結構賢いかも知れない。
 読もうと思っていた雑誌を手に取る。
 どうやら仔猫も指先に戯れるだけで、大人しくしているようだ。
 俺もオタコンが帰ってくるまで、暫しの静寂を楽しむ事にしよう。
 ――こんな日も、悪くない。
 そう感じている自分に驚きながら。

    貳

「ただいま、スネーク!!」
 相棒が息せき切って帰ってきたのは、驚く程早かった。
「おお、早かったじゃないか」
 さして難しい議題でもない会議だ、すぐ終わるだろうとは思っていたが、正直
ここまで素っ飛んで帰ってくるとは思ってもみなかった。
『そんなにこいつの事が気に入ったのか』
 膝上の仔猫をからかいつつ、俺は苦笑した。
「まずは落ち着け。仔猫もこうして無事だ」
「いや……別に君を信用してなかったとか、そういう訳じゃないんだ」
 荒い息を整えながら、オタコンはふっと微笑んだ。
「解っているさ」
 仔猫はやはり俺より相棒の方がいいようで、早速甘えにいっている。
「そういや、名前……どうしようか?」
「何?」
「この仔猫の名前。まだ決めてなかったんだよね」
 オタコンは仔猫を抱き上げると、俺の鼻先へ持ってくる。
「お前さんがつけてやればいいだろう?」
 仔猫は己が話題にされているのが解っているのか、おとなしくオタコンの腕に
収まり、俺達を煌めく瞳で交互に見詰めている。
「僕が決めてもいいのかい」
「ああ、構わんさ。好きに決めるといい」
 ううむ、どうしようか。
 真剣に悩み始めたハルを、俺は咥え煙草で眺めていた。火を点けるのは流石に
我慢する。こんな脆弱な生き物の傍で、無頓着に吸ってはいけない気がする。
「やっぱり……うん、可愛いだけじゃなくて、恰好いい名前にしてあげないと」
 仔猫も同意するように、一声鳴く。
「う〜ん、やっぱり可愛いなぁ。スネークに虐められなかったかい?」
 オタコンの指先に吸いついていた仔猫は、可愛らしい声で一声鳴いた。
「おい、そりゃどういう意味だ!」
「あはは、返事してるみたいだねぇ」
「遊んでやったろうが。お前、恩知らずだぞ?」
 もう一度可愛らしく鳴く仔猫。
 どうやらオタコンは仔猫とグルになって、俺を玩具にする事に決めたらしい。
「“遊んでやった”だなんて言ってるけどスネーク、ひょっとして君、やっぱり
虐めていたんじゃ――?」
「………」
 煙草のフィルターを噛んだまま、俺は唸った。こうなってしまっては、口では
絶対に勝てない。相棒が許してくれる気になるまで――もしくは飽きるまで――
おとなしく玩具に甘んじるしかない。
「厭だよ? お前にもしもの事があったら……僕は……」
 せめてもに、じろりと睨んでやると。
「まさかとは思うけど、妊娠したりしてないよね?」
 とんでもない事を言い出す。
 わざとらしく空涙を流すふりをするオタコンに、俺は呆れながらも乗ってやる。
「お前がいるのに、そんな事するか!!」
「………」
 余りこういう言葉遊びは得意じゃないんだが……
 不自然な沈黙が少々痛い。
 それを破ったのは、仔猫のか細い鳴き声だった。
「ああ、ごめんごめん、お腹空いたよね? ミルク飲むかい?」
 肯定するように更に甘えたような声を出す仔猫に、オタコンは微笑んだ。
「スネーク、僕のお姫さまがミルクを御所望なんだよね。因みに僕はホット珈琲
が飲みたいな」
 まるで、最初からいたたまれなさそのものがなかったかのような相棒の態度に、
俺はほっとして返した。
「……解った。用意する」
「悪いね、スネーク。有難う」
 もう一度、極上の笑顔を浮かべたオタコンは、また仔猫とのやり取りに夢中に
なる。
「もうちょっと待っててね。今すぐスネークが持ってきてくれるからね?」
 薬缶を火にかけ、豆を削り始める。
 それにしても、猫ばかり構うのはどうだろうな。それとも猫だからいいのか?
猫可愛がりという言葉もある事だしな……
 まあ、用意するついでにそんな平和な光景を眺められるので、よしとしよう。
「スネーク、まだかい?」
 おっと、手が止まっていた。
「焦るな、もうすぐできる」
 挽き終わった豆を丁寧に計る。お湯もそろそろ沸いてきた。
 ミルクの具合もいいようだ。
「もうすぐおじさんがミルク持ってきてくれるからね?」
『おじ………』
 とんでもない言葉が聞こえてくる。
 あとで覚えていろよ、ハル。
「ほら。お前さんのは熱いぞ。仔猫のは猫舌仕様だ」
「ありがと、おじさん。最高だよ」
 語尾に音符でもついていそうな機嫌の良さだ。
「頼むから、おじさん呼ばわりはやめてくれ。言わせて貰えば、お前さんだって
大して違わんだろうに」
「そうとも言うかもね、お・じ・さ・ん」
「…………………」
 まだ苛め足りないのか……
 ちょっと凹みながら、珈琲に口をつける。
 いつになったら許してくれるんだろうな。
 仔猫の方は一心不乱にミルクを舐めている。時々オタコンの方を見ては、また
安心して皿に顔を突っ込む。
「この子の言葉が解るといいのに。何かそういうの、作ってみようかなぁ」
 こういうところは、やはりオタコンだ。
 その頭脳の中では、俺には想像もつかない何かが動いているのだろう。
「今でも充分通じていると思うがな」
「そう思う?」
「ああ」
 珈琲を飲みながらのんびりと午後の陽射しを浴び、大事な相棒と共に過ごし、
好きな本を読んだり猫と遊ぶ。
 俺には絶対に縁のない、手に入れる事などできはしないと思っていた極普通の
昼下がりの光景が、手を伸ばせば届くところにある。
 眩暈がする程の平和な光景。それをくれたのは、間違いなく。
「ね、今の仕種なんて――」
『お前さんのおかげだ、ハル』
 俺は躊躇わずに手を伸ばした。
「………」
 きょとんと見開かれた瞳が相変わらず無防備で。
 俺はもう一度目蓋に唇を落とした。
「ハル……有難う」
 俺に安息の場所を与えてくれて。
 何をおいても護りたい、そう思えるお前という存在に気付かせてくれて。
「……どうしたんだい、君らしくもない消極的な態度じゃないか」
 ふ、と微笑んだ相棒はそのまま俺の腕の中に身を凭せかけてきた。
「……………」
 仔猫はすっかり満腹したらしく、うんと伸びをするとまたオタコンの膝によじ
上ってくる。
 腕の中の、確かな重み。
 込み上げる愛おしさ。
 旋毛にそっと口接けると、くすぐったげに身をよじるが逃げずにいてくれる。
「何だかこうしてると……眠くなってくるよ……」
 仔猫の方は既に夢の世界を彷徨っているらしい、すっかり安心し切った様子で
丸くなっている。
「そうだな……眠ってもいいぞ。俺がこうして抱いていてやるから」
「君は……甘やかし過ぎだよ」
 半ば眠りに落ちかけながら、そんなひねくれを言うのも、やはりオタコンだ。
「そんなに甘やかされたら……きっと僕は、もっと……」
「もっと? 何だ?」
 しかし、腕の中の相棒は既に睡魔に連れ去られたあとだった。


 ねえスネーク。
 君は何がそんなに不安なんだろうね。
 僕は狡いからね、すぐ誤解するよ?
 我が儘だって沢山言うだろうし、つけあがっちゃったりもするよ?
 だから、そんなに甘やかさなくていいんだ。
 大丈夫、僕はここにいるから。
 君が傍にいてくれる、まるで僕一人のものみたいに。
 それだけで、もう充分過ぎるくらい僕は恵まれていると思うし。
 恥ずかしいから面と向かっては言えないけど。

 愛しているよ、僕のディヴ……とこしえに。





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