Faded 1


 咄嗟の事で手加減できなかった。


 止める間もなく霊道へ向かって駆け出した霊幻。何をするつもりか理解した
時、既に無能の詐欺師は湧き出てくる悪霊にその身を捕らえられつつも扉に手
をかけていた。
 視線が合った。
 恐怖ではない、無論、諦観でもなかった。
 哀しい程の安堵がその顔を過ぎるのを、エクボは愕然として見詰めた。
 消失を覚悟したが故の小さな笑い。
 そんな笑い顔など見たくなかった。
〝やらネェよ〟
 彼奴らにくれてやるには、いかにも勿体ない。
 小さくまとめていた霊素を限界まで押し広げ、引き攫われていく霊幻の脆弱
な身体を包み込む。踏ん張ろうにも全盛期には程遠い霊力では然したる抵抗は
できない。諸共に引き摺られかけた。
 霊道の向こうは、この世とは違った法則で動いている。もたもたしていれば
生命に関わる。思案する暇も力を惜しむ余裕もなかった。
 エクボは全霊力を――上級悪霊の矜恃にかけて――振り絞った。己の霊体を
霊道の奧へ、その反作用を利用し、無茶ばかりする霊幻を気を失った依頼人の
方へ押し飛ばす。かなりの勢いがついてしまったので、瘤や打ち身の一つ二つ
くらいはできたかも知れない。
『悪いな、霊幻』
 今度は詐欺師の方が驚愕の表情を浮かべているのを、悪霊は奇妙なおかしみ
をもって見送った。
『そんなに驚くような事かネェ……いや、驚くか』
 神になる夢を叶えるため、茂夫の能力を手に入れるため、最大の障壁となる
筈の相手だ。どう篭絡するのか、寧ろ排除するべきか。有り体にいえば決して
良好とはいえない間柄だった。
 それが、いつの間にやらだ。
 ここで奴を見殺しにすれば茂夫に除霊されてしまうだとか、我を失って暴走
されては予定が狂うだとか、そんな思惑は露程も浮かばなかった。
 己の情動を探れば、出てきたのはたった一つだけだ。
 我知らず、押し潜めた笑い声が出る。
 霊幻の口が――恐らく名を呼ぼうとしたのだろう――【エ】の形を取った時、
悪霊の力に引っ張られた霊道の扉は無慈悲に閉じた。
 向こうから扉を見る事は、最早できない。閉じた瞬間、界が切り替わるため
互いに干渉する事は不可能なのだ。
 霊道側から見える扉も、朧に揺らめき始めている。確乎たる物質として存在
しているものではないのだ、孰れは消滅するだろう。超自然発生的にどこかへ
繋がるか、或いは新たに誰かが喚ぶまでは。
 霊道内は黎明直前の漆黒に包まれていた。ぼんやりと見えていた扉が消えて
しまえば、ただ人には文目も分かぬ闇となる。
 残ったのが己で良かった。何の気負いもなくエクボはそう思った。
 霊道に引き込まれて戻ってきた人間はいない。たとえ、毒素や呪いによって
即死しなくとも、常闇の中を人にあらざるモノが襲ってくれば、抵抗どころか
逃走する事もできないだろう。
 この世との接続が外れていく内に、広さと時間の感覚が消失していく。上下
左右の感覚もなくなり、宙に浮遊している事とて地面の感覚も怪しい。
 ――扉が消失した。
 真の闇が到来する。
 それを待っていたかのように、じわじわと染み出すようになにものかの気配
が這い寄ってきた。
 使える全霊力を放出した結果霊素は枯渇している。
 霊体も意識を保てる限界まで縮んでしまっていた。
『まぁ俺様悪霊だからよ。このまま終わるつもりはないぜ』
 上級悪霊をもって任ずる己に不可能はない。
〝さあ来いよ雑魚共! 暇潰しに遊んでやるぜ〟
 エクボは、たった独り、いつ果てるとも知れない存在をかけた戦いの中へと
身を投じた。


 然したる能力のない、というよりまるで何の能力もない霊幻にさえひしひし
と感じられていた辺りを払う強烈な霊圧は、拭われたように消えていた。扉が
閉まった事で魍魎の類いも湧かなくなり、既に現出していたモノ共はエクボが
あの刹那に一掃していったとみえ、室内は嘘のように静まりかえっていた。
 霊幻は貴重な数秒間、中途半端に身を起こしたまま上級悪霊の消えた辺りを
見詰めていた。
 そこには霊道も扉もない。全て消えてしまった――
「……エクボ?」
 しんと静まり返った室内に、霊幻の声だけが響く。応えはない。
 一呼吸、二呼吸。
 信じたくない現状に理解が及ぶにつれ、霊幻の瞳が見開かれていく。
「な……何で……」
 疑問は途中で押し戻された。
 脳が揺れる程の勢いで、未だ気を失ったままの依頼人の姿を視界に入れる。
正確には、青年に握らせておいた筈の念珠の在処を探した。
「あ……った……」
 悪霊離れしたお人好しさを発揮した結果の結晶が、何も変わらずそこにある。
 そっと触れる。ちゃんと触れた
 まるで何の根拠もないが、悪霊の力を使って作った他人には不可視のそれが
こうして消えずに残っているという事は、取りも直さず、彼が消滅していない
事の表われではないだろうか。
 動揺は、自分でもどうかと思う程静かに去っていった。
 嘆いたり喚いたりするのはいつでもできる。
 まずは現状の確認、そして取れる手段を全て。
「エクボ……待ってろよ」


〝くっそ、やっぱりキリがネェなあ!〟
 霊体が吹けば飛ぶ程のサイズになってしまったので、手当たり次第に戦いを
挑む訳にもいかない。
 何とか相手を出し抜き、消滅の意志をかい潜り、飛び散った霊素をちまちま
と集め続けて、既にどれだけの時間が過ぎたのか。
 霊力の戻りは厭になる程に遅い。そもそも溜める片端から使わざるを得ない
のだ、出し惜しみしていれば押し負けるとあっては御託を並べている場合では
なかった。
 時のない霊道には、時間経過という概念もまた存在しない。肉体のない存在
となってから久しいとはいえ、精神的疲労が蓄積してくるのをエクボは微かな
苛立ちと共に感じていた。
 これまでにも、それなりに修羅場を踏んできている。絶体絶命になった事も、
勿論あった。それでもこうして存在し続けられているのは、的確に解決方法を
見つけてこられたからだ。
『解決法ったってなぁ』
 最重要課題は消されない事。言葉を変えるなら、エクボが己自身として生き
延びる――といって悪ければ存在し続ける――事。ただ、その先が見えない。
 存えて、そして、どうやって霊道から脱出するのか。
 偶さかに、どこかへ扉が開く事はある。それを使う事ができれば労せずして
向こうへ戻れるかも知れない。だが、折良く己がその場にいられる保証はない。
 或いは、力ある霊能力者が霊道を開く事も全くないとはいえない。その場合、
強力な波動が伝わってくるだろう。巧くいけばそれを伝い、扉を見つける事が
できるかも知れない。
 そう、【かも知れない】ばかりだ。余りにも不確定要素が多過ぎ、採るべき
道を決められない。
 また一体、魑魅がエクボの攻撃を受け消滅する。
 貴重な霊素を摂取しながらエクボは己を鼓舞するように吼えた。
〝上級悪霊の底力、舐めるんじゃネェ〟
 たとえボース粒子の一欠片になろうとも、必ず還る――あの場所へ。


 霊道騒ぎの後始末をつけ、霊幻は疲労した身体を引き摺るようにして相談所
まで戻ってきた。そのまま調べられる限りの資料をひっくり返し、僅かな伝手
を頼る。
「遅くに済まん。ちょっと聞きたいんだが」
 深夜にも関わらず2コールで出た森羅に、この騒ぎの根深さを知る。間怠い
前置きは抜きに直球で霊道の事を問うた霊幻に、微かな戸惑いが伝わってきた
ものの、森羅は知る限りの事を教えてくれた。
 霊道は存在そのものが不安定だ。
 決まったところに毎夜、規則的に現われる事もあれば、人の手の入らぬ山野、
或いは結界の張った奥津城に現われる事もある。強引に喚ぶ法もないではない
らしいが、修験者や能力者が束になってあれやこれやの手順を踏み、それでも
成功率はかなり低いらしい。
「霊幻、何かあったのか? 霊道の事を調べるなんて……まさか、そっちでも
繋がりまくっているのか!?」
「……いや、大丈夫だ」
 これまで調べた事の裏付けが取れただけで、特段目新しい情報は流石に森羅
のところにもなかった。ならば、こちらの事情に彼らを巻き込むのは得策では
ない。あちらはあちらで手一杯のようだし、悪霊を助けてくれとはなかなかに
言い難いものがある。本来なら両雄並び立たずの関係なのだ。
「ちょっと気になる事があってな」
「ならいいが。お前の方にも伝わっているとか、この異変が調味市周辺だけで
収まればいいんだがな」
「………」
 ある意味予測の範囲内だが、厭な予感がする。それもかなりな強さをもって。
『自分で言うのも何だが、こういう勘ばかりは良く当たるんだよな』
 単にといっては言葉が悪いが、事は霊道にエクボが取り込まれた、といった
単純な話ではなくなりそうな気がする。
「手伝いが必要なら言ってくれ。とはいっても、お前のところにはあの超能力
少年もいるし、俺に取り憑いた……何といったか、エクボだったか? あいつ
もいるだろう? 俺なんか寧ろ足手纏いか」
 悪気なく発せられたその言葉。霊幻の眉間に僅かに皺が寄る。
 これが電話で良かった。今は表情を取り繕う気力もなかった。
「……夜中に済まないな、有難う」
「いや、気にするな。何かあったらこちらからも連絡する」
 森羅に礼を言い、霊幻は通話を終了した。覚えず溜息が零れる。
 暫くは携帯を閉じるのも忘れ、考えに耽る。
 とにもかくにも、厄介だという事は解った。
 あの気の毒な青年のところには、恐らく二度と霊道は開かない。上級悪霊が
閉じる意志を持って閉めたのだ、それがそう簡単に覆されるとも思えない。
『モブなら……』
 一瞬、考える。
 何もかもが規格外な弟子ならひょっとして理を破り、もう一度扉を作り出す
事も、何なら霊道そのものに穴を開ける事も可能かも知れない。
 だが、果たして危険はないだろうか。
 扉を開く事によって生じる危険が最強の超能力者とはいえ、まだ子供のモブ
に与える可能性。危険な悪霊とまで言わしめたエクボを解放する事によって、
これから先に起こるかも知れない問題を顕現させる事態。今まで問題にもして
いなかった己を震撼させた情動を、白日の下に曝け出す事になるかも知れない
怯懦。
『誰にとって、何の危険……なんだろうな』
 苦笑になり損なった唇が僅かに引き攣った。
 思い惑うのは、全てが片付いてからでいい。
 霊幻は、いっかな兆してこない眠気を呼び戻すのを捨て置き、今度はネット
から情報を探る事にした。


 あれから一体どれだけの魑魅を片付けたのだろう。
 何故こうしているのか、どこを目指しているのか。
 無明の闇の中、弱々しい翠碧の光が小さく見えた。
 酷く衰弱しているようで僅かな光跡も消えそうだ。
 殷々と底籠もる音が低く遠く深淵に揺蕩っている。
 聞き入ってもそれが真に何の音かは判然としない――まるで、規則的に梵鐘
を打ち鳴らすが如く。この世の何とも似通わぬ振動に、しかし、疑問を呈する
者はいなかった。
〝………〟
 小さな声が風に吹き攫われつつ、微かな光から聞こえた。今にも消えそうな
魂魄は、それでも本能のままに霊素をかき集め、孰れとも知れぬ行先を求めて
進んでいく。
 水の畔も緑蔭もなく、ただ茫漠とした荒野が果てしなく続く。
 光なき道行き。
 何かの気配を内包した生温い風が、光へ向かって吹いてきた。
 偶然に吹きつけてきたものではない、それには意志があった。
 見えぬ闇の中、それが凝る。
 ふらつく焔の下、唐突に大地が割れた。闇より尚昏い亀裂の奧から、異形の
姿をしたモノが、至近。
 弱ったりといえど、素晴らしい力を内包したそれを飲み込まんと歪んだ
開け喰らいついてくる。焔に元より抵抗する術はなかったのか、手もなく飲み
込まれ、周囲は何食わぬ顔をしたまま真性の闇へと沈み込んだ。ただ、崩れた
大地だけが歪な縫い跡を残したまま。
 異形は穢れた土塊の中へ、満足げにその身を納めた。
 そのまま数瞬。
 苦鳴はなかった。
 何の前触れもなく、異形を内包した地が吹き飛んだ。突き上げるように飛び
出した異形が、宙空ですっぱりと二つに割れる。まるで鋭利な刀で両断された
ように抵抗なく左右へ分かれた身は、岩場に落ちた。
 宙に残ったのは、包含する力に比して小さな悪霊。
 揺らめく炎に確たる意志はなかった。今の一幕も果たして認識しているのか
どうか。
 ぼろぼろと崩れゆく異形の姿が細く収斂し、翠碧の光へと吸い込まれていく。
 どす黒い色をした霊素を含む内、綺麗に光っていた霊体が曇っていく。抵抗
するように焔が揺れたが、半ば意識のない状態では抗い切れなかったのか。
 小さくとも柔らかく温かみを持った光がその瞬間、僅かに濁りを受け容れた。
 霊体がぐっと膨らむ。黒い稲妻とでもいうべき放電が周囲に奔る。
 霊圧が見るみる内に高まり、どうやら様子見していたらしい雑魚共が雪崩を
打って逃げていった。
〝れいげん……〟
 光が呟いた――吹き渡る梢の囁きのように。
 燃える魂の上に、うっすらと顔が浮かんだ。茫とした視線はどこをも見ては
いない。
〝必ず……還る〟
 不撓の意志が言葉を発する。
 何もかもが削ぎ落とされた果て、握り締める最後の拠り所のように、平坦に。
 透き通った翠碧の人魂だったものが徐々に濁りを取り込み、沈んだ翡翠色に
変貌していく。元は何であったかも不明な泥袋に似た、或いは屍臭に集る羽虫
のような、また気力を根刮ぎ奪っていく黒霧のような魔が次々に襲ってくる。
 先刻まで弱り切っていた姿が嘘のように、悪霊の攻撃には遅滞がなかった。
妖の攻撃は当たらず通らず、全力を籠めた風でもない悪霊の力は、相手にする
のがまるで薄衣でもあるかのように往なし、滅ぼしていく。
 斃し、取り込んでいった結果として、その姿も変容していく。まるで在りし
日の姿を取り戻そうとでもいうように。
 それは、人に見えて人ではないモノ。
 玉魄のように丸みを帯びた姿が徐々に崩れ、やがて、宙に浮いていた魑魅
しっかりと二本の足で歩き始めた。
 背の高い、筋肉質の、男性を模ったもの。
 黒いスーツを隙なく纏い、その手には力の象徴のような長刀が握られている。
 相変わらず視線は虚ろだ。
 だが、その虚ろに対して確固たる歩みは止まらない。
 襲ってくる妖を握り締めた長刀で無造作に薙ぎ払いつつ、着実に進んでいく。
まるでどこかへ誘導されているように。
 戦う度に纏った霊素は歪み、黒ずんでいく。
 振り解こうと揺らめく焔。抵抗敵わず益々侵蝕されていく魄。
 それが苦しかったのか、哀しかったのか。
 ふと意志の強さを示すかのような口許の皺に一筋、零れ落ちる雫があった。
一つ、二つ。小さな滴は何も産まぬ大地へと滴っていく――歩みに従い、吹き
過ぎる風に押されて。
 声にならぬ音がまた唇を動かす。
 還る……帰る……
 悪霊は邪魔をしてくる雑魚共を視線すらやらずに握り取り、咀嚼した。吸収
するまでもない木っ端は踏み潰し、蹴り飛ばし、転び出た霊素は時ならぬ雨の
ように沈黙した大地へ降り注いでいく。
 茫漠たる天空と大地に光はなく、色はなく、時もない。
 唯一、眼に灯る翡翠の色と大地に置き去りにされていく硝子の透明さに似た
液滴だけが、人のいない世界に耀きを残していた。


「エクボが」
 最近姿を見せないんです。
 弟子がいつもの無表情の中にも僅かな心配を滲ませた声でそう言ってきた時、
霊幻はこれ以上の沈黙は難しい事を悟った。
 あれから既に二箇月もの時が過ぎていた。
 季節は移り変わり、寒空にコートが欲しくなる。
 エクボの不在を特段誰にも聞かれなかったのを幸い、身代わりになって霊道
に飛び込んだお人好しな悪霊の事を、霊幻は結局誰にも話さなかった。
 能力者達に相談すれば恐らく皆手伝いを申し出てくれたろう。だが、零能で
あっても一人の大人として、避けられる危険を子供に背負わせる事に最後まで
躊躇があった。
 ネットの玉石混淆の情報、古い神域に残された文献などを漁り、何とか次の
手に繋がるものがないか探し続けてはいたものの、捗々しい成果はなかった。
 折に触れ森羅とも連絡を取り合ってはいたが、あちらの方でも手がかりなし
なのは同様だった。
 そもそもあちらこちらに霊道が開き始めたといっても、そこまで時間的にも
空間的にも似通っている訳ではない。まだぎりぎり偶然で済ませられる確率だ。
 実際、霊幻にはこれ以上の探索は不可能だった。
「モブ、実はな」
 話が長引きそうだと気付いた芹沢がお茶を淹れてくる。
 三人揃ったところで、感情を排し淡々と事実だけを話し始める。黙っていた
事を咎められるかと思ったが、全てを吐露し終えた霊幻の前で変わらず茂夫は
無表情のままだった。
「そんな事が……エクボ君、大丈夫かな」
 芹沢の方が余程心配そうな顔をしている。
「悪霊だし、平気じゃないかな」
 相変わらず、信用しているのか辛辣なのか良く解らない感想を述べる茂夫の
言に、霊幻は久し振りに笑った。
「あれから二箇月も経ったし手がかりもなしでなぁ、正直手詰まりだ」
 扉が閉じる瞬間のエクボの表情を思い出す。
 片眼を眇め、悪ぶったような笑みを片頬に引っかけて。最後の一瞬、まるで
安堵したかのようにそれが柔らかく解けたのを、霊幻は確かに見ていた。
 上級悪霊にそんな顔をさせてしまったのが自分だと思うと、心苦しいどころ
の騒ぎではなかった。
「じゃあちょっと探してみますね」
 茂夫の、ちょっとそこまで散歩しに出かけてきます並に軽い言い種に、若干
冷汗をかく霊幻。超能力を有する彼にとっては、実際にその程度の事なのかも
知れない。だが、状況を伏せておく事はできない。
「待てモブ、霊道の向こうはどうなっているか判らない」
「はい」
 霊幻の声音に何を感じたのか。茂夫は平坦な表情のまま、敬愛する師匠へと
顔を向けた。その隣の芹沢も釣られたように緊張した表情で聞いている。
「俺を助けたとはいえ、普段上級だ何だとエラそうな事を言っているエクボが
あっさり取り込まれたくらいだ」
「……はい」
 この言葉を言うには、さしもの霊幻もありったけの覚悟を掻き集めなければ
ならなかった。
「充分に気をつけろ……だがな、手に負えないと思ったらすぐ止めろ」
 悪霊とはいえ、茂夫にとって友人でもあるエクボを見捨てろというに等しい。
そして、霊幻にとっても――何度目かの――生命の恩人を。
「………」
「モブ、返事」
 真っ黒な瞳は瞬ぎもせぬまま霊幻の顔を通り越し、どこか違うところを見て
いた。相反する感情がほんの刹那、流れ過ぎる。もう、護られて導かれるまま
の小学生ではないのだ、茂夫にも師匠の言葉がある種の真実を言い当てている
事は気付いている。
 だが、それでも、だ。
 そんな事は厭だと泣き出す感情がある。いつものように奥底に押し込められ、
表出するには至らない。しかし、それは心の裡に頑然としてある。
 厭ならどうするか。
 失敗しなければいい。
 至極あっさりとその結論に達した茂夫は、漸くその言葉を唇に上せた。
「……解りました」
 霊幻の方も、内心の動揺はどうあれ鷹揚に頷いた。改めて弟子がその能力を
発動させるのを息を詰めて見守る。
「……これかな? いや、こっちかな?」
 両手を前に出し、目を閉じて何もないところを手探りしているような茂夫。
界が違うせいか時間が経ち過ぎているせいかは判らないが、なかなかエクボの
居所を読み切れないらしい。
「影山君、俺も手伝おうか?」
「はい、お願いします。エクボ、何だか気配が変わったみたいで」
 今度は二人がかりで探し始めたようだが、何の力もない霊幻には、ただ目を
瞑って喋っているだけにしか見えない。
『これで駄目ならいよいよ打つ手なしだ。頼むぞ、二人共』
 とても長い時間が過ぎたような気もするが実際は数分後、二人は溜息を吐き
ながら一旦集中を解いた。
「駄目だ。物凄く遠い? 重い? 良く解らないけれど、摑めない」
「何だろう。何かぬるっと滑っていく感じじゃないかい?」
「うん……気のせいか厭がっているような」
「ああ、そうかも」
 何でだろう、と首を捻る茂夫の額に滝のような汗が滑っている。それを見た
霊幻の顳顬にも。
 ――本当に見棄てられるのか。あの偽悪的で優しいなどという、矛盾を内包
した悪霊を。
「エクボ君を捕まえるよりも、いっその事扉を作って向こうから来て貰ったら
どうだろう? その方が早そうだ」
 顔色の良くない師弟コンビに、芹沢があっけらかんと提案してきた。
「そうか、呼べば聞こえるよね」
「悪霊だしね」
 色々と突っ込みどころ満載だが、それで何とかなるなら御の字だ。
 超能力を受けて空気が流れ始める。相談所のど真ん中に何の前触れもなく、
あの日見た重厚な扉が徐々に姿を現わしてくる。霊幻には何がどうなっている
のかさっぱりだが、ぼんやりしていた輪郭が徐々に定まっていくに従い、空気
の色も変わってきた。
『エクボ……』
 固唾を呑む霊幻の目の前に、今やはっきりと視認できる大扉。
 微かな軋み音をさせ、開くかと思えた時――


 晨明の下、ひ弱な魂魄は完全に消え失せていた。
 形容は曾て肉の身を間借りした男のもの。
 似て非なる器の中に魂は深く深く沈み込み、魄だけが彷徨っている。
 あれから幾星霜。量子的揺らぎの中、時を数える事に意味はない。
 既に言葉は何程も紡がれなかった。
 不意に、その人ならざるモノの足が止まる。
 強大な力がふと寄り添い、包み込んでくるのを感じる。
 それを、人ならざるモノは己を縛るものと認識し、振り払った。
 二度、三度と熱くて重い力が強引に引き寄せようとしてくる。
 悪霊は自由を阻害される事を厭い、そして怒りを覚えた。
 邪魔をする者は不要だ。
 ならばどうするか。
 簡単な事だ、消してしまえばいい。
 気配を探るように茫洋としていた眼が鋭くなる。
 見えぬ力の流れを捕らえ、悪霊は悍然と歩みを進めた。
 溢れ出る霊素。全身を覆い尽くして尚、余りある力の汪溢。
 荒れ野だけが続くと思われた黒い大地にも、やがて終焉が訪れる。
 唐突に開けた視界。何処からか射し込んできている、退色した朧な光。
 それに照らされ、巨大な門が宙に浮いていた。
 無表情だった男の顔に、始めて浮かんだもの。それは憎しみと歪んだ悦びに
溢れた【笑い】。
 やっと、やっとだ。
 失った感情を闇に染めながら男は声もなく笑い続ける。
 涙は流れない。既に枯れ果てていた。
 代わりに流すのは、暗闇より深い業。
 仮面のような笑顔を貼りつけたまま、人ならざるモノの全身から紫闇の霊気
が噴き出す。それは余りに冷たく――鋭い。
 手にした刀が唸る。
 重力の軛など最初からなかったかのように男は地を蹴り、空を舞った。
 鞘から抜いたところは見えなかった。
 扉へ肉薄し、一閃。
 ただ一刀で門は斬り開けられた。
 理が怒濤の勢いで繋がり、互いに鬩ぎ合い、現実の強い存在に押しやられ、
押し負けた霊道のそれは消失していく。
 霊道内に蟠っていた弱きモノは散り散りになっていった。物質の重さに存在
が耐え切れなかったらしい。
 残ったのは上級悪霊、只一人
 明るい陽光が、いっそ暴力的ともいえる強さで死と静寂と闇に塗り潰された
大地へ降り注ぐ。颶風が吹き荒れ、固定していないものが次々に視界の片隅を
飛んでいく。その向こう、呆気に取られた表情を等分に並べた顔が三人、男を
見詰めていた。それが喜色に変わるのに然したる時間は要しない。
 だが、その内の一人だけは直ぐさま表情を曇らせた。年若く、一番つき合い
の長い友人、である筈の少年。
「エクボ……? それ、どうしたの?」
 疑問と警戒を孕んだ声が男にかけられた。
 応える声はない。代わりに亀裂のような笑みが刻まれた。
 理が完全に現世のものとなる。これで、邪魔者を滅ぼせる。
「エクボ、お前……良く無事で――」
 あの日あの時、存在をかけてまで護った青年が震える声のままに近寄ろうと
して、最後の一人に止められる。
「霊幻さん下がって、あれはエクボ君じゃない」
 若干腰が退けたまま、しかし、逃げる気は毛頭ない様子だ。
 エクボと呼ばれた男。
 曾て上級悪霊であったモノ。
 友として、仲間として共にあった筈の存在。
「エクボ……」
 今ひとつ状況を信じられない霊幻の茫然とした声が、室内に弱々しく響く。
 何一つ特殊な力のない相談所所長を護るため、二人の超能力者が前に出た。
 何も言わずとも、敵だと認めざるを得ない勁い気配が辺りを席巻していた。
 対するモノは、あれは見知った彼ではない。既に違うモノ、異なった存在。
 三者三様の表情と想いを見据えたまま、晦冥の底に佇む男は静かに嗤った。


 そして、男は躊躇なく界を超える――狂瀾の刻を再生するために。







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