Heimat


 何かに呼ばれたような気がして、悪霊はびくりと肩を揺らせた。
『……寝てたのか』
 普段、霊体のままの時は全ての――欲求から解放されているが、こうして
人体に憑依している時には腹も空けば眠くもなる。
 軽く欠伸をしながら身を起こしかけ、そこで悪霊は直前まで夢見ていた内容
を思い出した。
 神にもなろうとする己が誰も救えず、護りたかった相手も最期は――
『うう、とんでもネェ悪夢だったぜ』
 眠りを必要としない悪霊が悪夢を見てされるなど、笑い話にもならない。
 未だに悪夢の残滓が纏わりついているような気がして、悪霊は小さく身震い
した。今は己のものとして使役している腕を軽く擦る。
 元はといえば、昨日の深夜にまで亘った大捕物に流石の悪霊も疲労困憊し、
借りてきた身体を返却する余裕もなく霊幻のアパートへ転がり込んだのが発端
であった。お蔭でまとまった霊素が手に入ったのは良いが、二人共揃って寝坊
するという為体だ。
 元々今日はモブのバイトの日ではなく、予約客もなかったのをいい事に臨時
休業にした相談所だったが、今のところ転送電話も鳴らないのでこのまま平和
に終わりそうであった。
 とはいえ、流石に飲まず食わずのままでは悪霊以外には問題があり過ぎた。
なんのかのと言って起こされたような朧な記憶があるが、その後がぷっつりと
途切れているところを見ると、二度寝を決め込んだ悪霊を叩き起こすのを諦め、
家主だけが食料調達に出かけたようだ。
『しっかし霊幻の奴、遅いな』
 ぐだぐだな記憶の中で見た時計の針は、それから軽く一周している。
 何かあったんじゃ……素のまま心配しかけ、悪霊は慌てて頭を振った。
 気を取り直すように周囲を見回せば――決して不安を感じて異常がないかを
確認しようとした訳ではない、決して――見慣れた霊幻のアパートの一室は、
いつも通りの佇まいを見せていた。特に変わったところもなければ、おかしな
気配もない。
 暑くもなく、寒くもない。
 平日の昼下がりとあって、遠くで時折子供の賑やかな笑い声が響いてくる他、
これといった物音もしない。
『何だってあんなおかしな夢を見たんだ』
 久し振りの憑依だったからだろうか。
 それとも、たまに借りるこの人間の調子が良くなかったのだろうか。
 あちこち確認してみたが、健康状態に問題はなさそうだ。
「……腹が空いてるからか?」
 下腹を撫でてみるものの、いまいち空腹という感覚がしっくりこない。
「うーむ」
 無表情のまま首を傾げたところで、玄関先から鍵を回す音が聞こえてきた。
「ただいま〜っと」
 コンビニの袋をがさがささせながら、何を考えているのか良く判らない表情
をした霊幻が部屋に戻ってきた。
「何だエクボ、起きたのか」
 その姿を眼に映す。
 いつもと違うところはないか、おかしなものを引っつけてきてはいないか。
「お前、何遍呼んでも起きないんだもんな〜」
 いくら何でも寝過ぎだろう、と笑う顔。
 変わらない。何もおかしな事は起こっていない。全き日常そのものだ。
 その事実を認識した途端、確実に己の中に起こった情動に悪霊は心中密かに
たじろいだ。
「………」
 あれは夢だ、ちゃんと解っている。悪霊は息をいた。
 それでも、何となく霊幻の顔を注視するのを止められない。
「適当に見繕ってきたけど文句言うなよ」
「………」
 先刻から黙ったままの悪霊に気を悪くするでもなく、ちゃぶ台の上に買って
きたものをひょいひょい並べていく霊幻。
 大丈夫、問題ない。妙なモノは憑いていない。
「エクボ、お茶と珈琲どっちがい――エクボ?」
 目と口をOの形に開いたまま、霊幻の動きが止まった。
「エクボさんエクボさん、もしもーし」
 腕を何度かぽんぽんされ、悪霊は我に返った。疑問符を浮かべた霊幻の顔が
何故か間近にある。将に目と鼻の先、いっそ近過ぎる距離に。
 遅蒔きながら悪霊は自分があの悪夢と同じように――全ての悪意から護ろう
とするように――霊幻を腕に囲っている事に気付いた。
「……あ」
 虹彩に焦点距離が合う。
 赤面しなかったこの身体を褒めてやりたい、悪霊は心底そう思った。
「【あ】って何だよ【あ】って。おい、まさか何か憑いてるのか?」
 始めは何かの冗談かと苦笑いしていた霊幻の表情も徐々に硬くなってくる。
それも宜なるかな、上級悪霊と嘯いてやまない彼が終始無言のまま、おまけに
曾てない程に糞真面目な表情で抱き締めた腕を離さないのだから。
「………」
「黙られると怖いじゃねーか……え、ほんとに何かいるのか?」
 腕の中から逃げようともせず、不安そうな表情を隠しもせずに辺りを見回す
霊幻。悪霊の動きを阻害しないためか、腕ではなく胸元に縋りつく体勢になる。
『お前それはいくら何でも人としてどうなんだ。悪霊に囚われていて逃げない
どころか何で逆にくっついてくるんだ。俺様に安心してどうする阿呆か!』
 脳内で一頻り喚き散らす悪霊。
 だが、実際の悪霊といえば、無意識に抱き寄せてしまった事実をどうやって
さり気なく流そうか、無表情のままパニックに陥っているだけなのだが。
「ちょ、マジで何かいるのか? 頼むから黙ってないでどうにかしてくれよ」
 霊幻の微かな怯えに、漸くエクボは自分を取り戻した。
 そう、相手は零能力者。そもそも見えていないのだから、いかにも何かいた
風情で誤魔化せば良いのだ。
「……解った」
 固く抱き締めた霊幻の背後に軽く掌を滑らせる。強張っていた背中が、ふと
力を抜いたのが触れた掌から伝わってきて、何故だかエクボは居たたまれなく
なった。
 何にも束縛されないのが悪霊の筈だった。
 いつの間に己は彼を――彼らを懐に入れてしまったのだろう。
 一年前の自分にこの有様を教えたら、鼻で笑われるだろうに。
「取れたぞ」
 ぎこちなくならないよう、エクボは努めてゆっくりと腕を外した。
「お。さんきゅ」
 今の一幕を何の疑いも差し挟まず、只の除霊として処理した霊幻がこちらを
見上げ、感謝の笑みを浮かべた――無表情の裏でどれだけ悪霊が七転八倒して
いるのかも知らぬまま。
 折角誤魔化せたというのに、またもや無意識に腕を伸ばしかけたエクボは、
慌ててその落ち着き先を缶珈琲へと変えた。
「さーて、ちょっと温くなったけれど食べようぜ」
 平和そのものの表情で弁当を食べ始める霊幻を結局は眺めながら、エクボは
独りごちた。
 食事が済んだら、さっさと身体を返してこよう。その方が訳も解らないまま、
余計な真似をせずに済む。
 悪霊は悪霊らしく、あるべき姿でいる方が精神衛生上も大変宜しいらしい。
 傍目には不機嫌そうな顔にしか見えない有様で、エクボも箸を取り上げた。


 ――食後の珈琲を飲みながら、身体を返してきたら戻ってくるつもりでいた
事に気付いたエクボが愕然とするのにあと二分。







《目次》
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