End of Time


「おい霊幻――」
 茹だるような暑さの中を、見た目からして暑そうな黒スーツの男が不機嫌な
様子を隠しもしないまま、些か乱暴に扉を押し開けた。
 片耳が欠け、お世辞にも堅気には見えない御面相だ。それが同業でさえ裸足
で逃げ出しそうな凶相をしているのだ、なかなかに肝が冷える。
「お前さんよぉ。いくら俺様が温厚な上級悪霊だからって、何でも許されると
思ったら大間違いだからな」
 雑事を押しつけた零能者が待ち受けているだろう室内へ、エクボは遠慮なく
上がり込んだ。外気の温度とは対照に、室内は適度に冷房が効いていて流れる
ままだった汗が落ち着いてくる。
「ほらよ、感謝しろ」
 半開きだった内扉を面倒がって左足で開けたエクボはそのまま暫し硬直し、
徐に片頬を歪めた。
「……この野郎。自分だけ涼しくお昼寝とはいい御身分じゃネェか」
 言葉をその表情が見事に裏切っていた。
 赤の他人が見れば凶悪な様相だが、彼らを良く知る者が見れば、それはこの
霊とか相談所所長にしか向けられないものだとすぐに解る、そんな表情だった。
買ってきたペットボトルを出しっ放しだった卓袱台の上に置き、エクボは――
今度こそ悪霊に相応しい――苦み走った笑みを刻んだ。
 休日出勤で出張除霊を(主にエクボが)熟し、炎天下の中を延々歩いた事で
(主に運動不足の霊幻が)疲れ果て、青息吐息で何とか自宅へ辿り着いたのが
ほんの半時間程前。相談所までも辿り着けなかったのは九割霊幻のせいだが、
結局多方面に過保護なエクボが、
「本来は休日なんだからまっすぐ帰れ!」
と、行き先を自宅へ変えさせたのが大きい。
 そして、現在は上級悪霊の前で無防備にも眠り込んでいる霊幻。
『眠ってるというよか気絶だなこりゃ。汗は流してるか』
 帰宅した当初は酷く上気していた顔も、恐らくは水風呂を使ったのか、幾分
マシなレベルになっている。首許に軽く手の甲を当ててみるが、心配する程の
体温上昇は見られない。
 水を使い、着替えて何とかソファまで辿り着いたものの、そのまま落ちたと
いった按配で霊幻の身体はやや斜めになっていた。悪霊の帰還を待っていよう
とした心意気は覗えるが、生憎体力の方が保たなかったようだ。
『水分は……これから取らせりゃいいか』
 面倒そうに上着を脱ぎ捨て、ネクタイを毟り取り、ワイシャツを肘まで捲り
上げ、と臨戦態勢を取ったエクボは小声で霊幻の名を呼ばわった。
「おい、霊幻……霊幻」
 呼ばれた方は熟睡体勢というか、意識不明のままだ。
「起きネェと勝手するぞ」
 ゆっくりと両手を伸ばし、身動ぎもしない霊幻の背中へ差し入れる。まだ目
を醒まさない。
「いいんだな?」
 そっと抱き起こし、耳許で吐息に近い音量で囁く。
 流石に擽ったかったのか、軽く顔が背けられたが、ほぼ抱き上げられている
体勢では逃げ場などない。寧ろ自分から悪霊の肩に顔を埋める形になっている。
「そのまま大人しくしてろよ」
 悪辣な笑みを片頬に閃かせたエクボは、いつもの要領で――【いつもの】と
いうところで既にして学習能力がないと言われても弁解しようがなかった――
視線に霊力を籠め霊障の具合を確認すると、両手からゆっくりと極弱く霊素を
零れさせた。まるきり悪事を企んでいるようにしか見えないが、本人は普通に
微笑を浮かべ、普通に治療を始めたつもりだ。
 これだけ霊幻が消耗しているのは、何も暑さのせいばかりではなかった。
 先刻の除霊時、止せばいいのに零能の悲しさか対象の悪霊とまともに対峙し、
その妖気を全身に浴びてしまったのだ。
 本人は夏バテか運動不足からの体力低下と思い込んでいる節があるが、原因
はほぼ霊障だ。
『……まさか低級霊の分際で自爆を選ぶとは思わなかったぜ』
 然したる自我も残っていず、本能に近い状態で漂っていたと思い込んでいた
ため、反応が僅かに遅れたのは、瞭らかにエクボのミスだ。張り切れなかった
バリアを抜けた妖気は上級悪霊の己には何の痂皮も残さず、零能者の霊幻には
絡みつく悪意と細かな切り傷様の痕をその霊体に残していった。
 ろくな霊力も持ち合わせていない雑魚だ、と侮った自覚はあったし、大いに
おちょくった覚えもある。
『まぁ……俺様の慢心……だよなぁ……あとで茂夫にどやされちまうな』
 何も見えていなかった霊幻は喰らった霊爆をエクボが相手を滅したせいだと
思ったようだが、実際はこの為体だ。
 相手が低級だったからこそ、この程度で済んだが、中級以上の悪霊であれば
とてもではないが暢気にはしていられなかっただろう。
 少しずつ、少しずつ霊素を流し込んでいく。
 霊障に穢れた霊幻の霊体がほんのりと元の色味を取り戻していく。淡い金色
に耀く霊体は悪霊を惹きつけて止まない。
 時に、恐ろしい程の蠱惑的な薫りさえ伴って誘う魂の光。
 それを言葉にした瞬間、本質は崩れて陳腐化してしまうだろうし、一度でも
欲求に負けて味わってしまえば取り返しのつかない事になりそうで、上級悪霊
はどれだけ怯懦と誹られようが、どちらの意味でも口にした事はなかった――
己がどれだけそれを渇望しているのか、厭という程に理解していても。
 僅かな取り零しもないように、慌てず急がず傷を修復していく。霊素の量が
少しでも多ければ傷が広がったり、甚だしきは霊幻の自我を乗っ取ってしまう
ので、細心の注意が必要だった。
 特段痛みはない筈だが、霊体に触れられ続けるという、えも言われぬ感触が
耐えられなかったのか。いつの間にか、霊幻の掌がエクボのワイシャツを握り
締めていた。
「大丈夫だ、怖くないからな」
 非実体化させた掌をゆっくり霊体に沿って滑らせ、絡みついた呪いや悪意の
想念を燃やし散らしていく。肉体の方の右手は、未だ意識のない霊幻の背中を
優しくさすっていた。
 熱かったのか、吐息と喘ぎの間のような息啜りが僅かに開いた唇から零れる。
 悪霊の瞳に翠碧の焔が揺らめいた。昼間は潜められている筈の妖しの色が、
誰にも見咎められずに揺蕩う。
 鋭く見据える視界の中心で、無防備に眠る霊幻の姿が捕らえられた。悪霊の
腕の中、まるで無抵抗に、寧ろ自ら縋りつくように納まっている。意識のある
時には決して見せないその姿に、悪霊はある種の情動が湧き上がるのを意識の
片隅に感じた。
 こういう時、エクボは己がどこまでいっても悪霊でしかなり得ない事を思い
知らされる。どれだけ繕っても誤魔化しても、人と並び立つには相容れない、
それ。
 欲しい――その魂も魄も、躯も心も、秘された全てを、何もかも余すところ
なく己のものに。
 憑依体から堪えようもなく霊素が溢れ出すのが解ったが、最早止められそう
になかった。
 真夏の太陽。燃える水。柔らかに光る黄金の霊体。
 捕まえて、絡み留めて、その吐息さえ意のままに。
 意識が全て、たった一つの存在へと集束していく。
「霊幻……」
 その名を甘やかに囁き、そしてエクボは我に返る。
 己の冷たい息に、応えるかのように薄く開いた唇。
 あと1cm。
 生者の温かく湿った息が冷たい死人の魄を撫でた。
 僅か1cm。
 悪霊は殆ど無意識に、愛すべき詐欺師の唇を蹂躙しようとしていた己の体勢
を嘲笑い、軽く頭を振って身を起こす。
 そうではない、それでは駄目なのだ。
 茂夫に除霊されてしまうから、などという浅い禁忌ではない。悪霊の意識の
まま脆弱な詐欺師を貪り喰らっても、この飢餓は決して満たされない。それに
気付いたのはほんの少し前だ。
 彼我のには触れ合う事も混じり合う筈もない、流れの違う超えられない河
が厳然と存在している。本来なら試みるまでもない、悩む事さえ愚かだ。
『それでも、欲しい……と思っちまった、んだよなァ』
 全てを手に入れられないのならせめてその半分だけでも、などという考えは
エクボの辞書にはない。上級悪霊は見た目通り貪婪なのだ。
 それに、いくら欲していようとも、他人の身体越しに奪うのは本意ではない。
 一つ深呼吸し集中を取り戻したエクボは、再度霊幻の霊体を見回し、細かな
傷を粒子状にした霊素で埋め始めた。
 やがて閉じられたままの目許が震え、ぼんやりと焦点の合わない瞳が覗いた。
「おう、起きたか」
 首を支えてやり、視線を合わせる。傍にいるのが一体誰なのか、しっかりと
見えるように。
「……エクボ?」
 恐らく身を起こそうとしたのだろう、微かに身動いだ気配がするがほぼ力の
入っていない今の霊幻には無駄な踠きだった。
「まだ動けネェよ。大人しくしてな」
 霊体の方はほぼ修復が完了していたが、まだ気力が戻っていない。それに、
熱中症にもなりかけだ。体力の方も、お世辞にも残っているとは言い難かった。
「……俺、寝てたのか? それとも気絶してた?」
 漸く状況を把握した霊幻が、無表情ながらばつが悪そうに片手で顔を覆った。
「ん〜、まぁ両方ってとこか」
 体力の限界と霊体の限界、と続ければ不思議そうな顔をする。
 今度はエクボの方がばつの悪い顔になったが、隠し立てしても仕方がない。
正直に己の不手際を告げる。
「ああ、あれって散らしたんじゃなくて自爆だったのか」
「おいおい、やらかした俺様が言うのも何だけれど、そんな感想でいいのか」
 文句の十や二十は覚悟していたが、対する霊幻は淡々としたものだ。
「まぁ、確かにいつもより乱暴だなとは思ったけれど」
 失敗するなど、まるで考えもしなかったと言われたようなものだ。
 悪霊の頬の赤みが若干濃くなる。
「……お前さん、ちっとは危機感持てよ」
 抵抗する術のない零能詐欺師の癖に、上級悪霊を信じ過ぎだろう!
「そう言われても見えないしな。口八丁で済む事なら俺の出番だが、超能力や
霊力で解決するには役立たずもいいところだし」
 己を卑下する訳ではなく、ただ事実をありのままに。
 霊幻の顔に浮かんだ微苦笑がとんでもない破壊力を伴い、上級悪霊のある筈
のない心臓を撃ち抜いた。
「…………ま、まぁともかくだ」
 またもや霊素が勝手に溢れ出しそうになり、エクボは己の霊体を厳しく引き
締め、憑依体に合わせて押し込めた。
 霊幻が零能で良かった。心底思う。
 もし見えていたなら、間違いなく怯えさせていただろう。
「乾涸らびる前に水分取っとけよ」
 先程コンビニで購入してきたペットボトルを渡してやる。
「ん、さんきゅ」
 悪霊の葛藤など露知らぬ詐欺師は、いつも通りの糞落ち着きに落ち着いた顔
で、それでもちょっと嬉しそうに笑うのだ――自分がどれ程危ういところで、
どれだけ危険な悪霊に護られているのかも知らぬまま。


 ――それとも全てを知っていて尚、上級悪霊のあるかも不明な忍耐を試して
いるのだろうか。
 時間切れを望んでいるのは、果たしてどちらなのか。
 偽悪的に眇められた眼の中に、恐らく本人にも解っていないだろう小ささで
哀しみが遊弋していた。







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