Antidote


 帰宅してから、兄が何やらごそごそやっているのは知っていた。
 珍しくも、普段は行かないようなところまで足を伸ばしたらしい。
『何か欲しいものでもあったのか』
 生活用品その他、武器弾薬に至るまで、近場で手に入らないものはない。
 言ってくれれば買ってきたのに、とは思わないでもなかったが、気晴らしも
兼ねていたのだろうと詮索するのは止めた。
 ただ、その腕に抱えられた紙袋へ視線をやる事までは止められなかった。
 再生紙が使われた、何の変哲もない紙袋だ。中身も極普通の買物のようだ。
 何買ってきたんだ?
 そう問おうとして、俺はやめた。事務所を通りしな、こっちに入ってくるな
と言わんばかりの鋭い視線をお見舞いされたからだ。
 これが数年昔だったら、嫌われたのかと挙動不審に陥るところだ。
『あの頃は、随分と必死だったな……』
 それを子供だったと取るか、譲れなかった意志と取るか。
 薄く苦笑が洩れた。
 今が醒めた訳ではない、勿論。
 飢えたように求めなくても、兄は消えたりしない。それが漸く解っただけだ。
 それに、もう一つ。
 兄の方も同じだけ——いや、ひょっとすると俺以上に——今この時を大事に
思ってくれている。そう、はっきりと口にしてくれたのは数える程しかないが
だからこそ、その言葉には非常な重みがあった。

「傍にいてくれ——俺の傍に」

 引かれ、互いに相打つ鼓動を聴く。重ね合わされ、しっかりと握られた掌の
熱い感触。
 それが、どんなに嬉しかった事か。


 なあ、何故わざわざあの店まで出向いたんだ?
 アンタの行動範囲外もいいところじゃないか。あれから随分過ぎたが、余り
人ごみの中に出ていくのが好きじゃない事くらい、俺はちゃんと知ってるぜ。
 それなのに、何でだ。
 素早く隠したつもりだろう、袋の中身。
 たとえ隠れていたって判る、柑橘の香。


 俺は黙ったまま、靴先に見える黒電話を見やった。普段なら、合い言葉つき
の依頼がくるかと心待ちにしている時刻だ。
 だが。
『頼むから、今日は鳴ってくれるなよ』
 視線は外さぬまま、全身を耳にする。
 見なくたって判る。
 柔らかな液体の音。
 触れ合う氷の鋭い音。
 不意に強く漂う甘い香。


 何でもないように装った兄の声が聴こえてくる。
 俺も、普段と変わらないつもりで歩いていく。
 そこには、俺の好きな酒が当然のような顔をして用意されていた。
「ちょっと用事があって出かけたんだが、たまたま目に留まってな」
 嘘だと丸解りな言葉。
「お、さんきゅー」
 無論、俺はそれに騙された振りをする。
「あちーし依頼はこねーし、うんざりしていたところだったんだ」
 本当は抱きついて抱きしめて、序でに頬ずりぐらいしておきたい気分だった
のだが、そんな事をすれば間違いなく恐ろしい報復が待っていた。
 何とか表情を取り繕う。
 一口含めば、爽やかな苦みと甘みが広がる。
 自分で作る時には面倒がって入れない事が殆どだったが、流石は完璧主義の
兄、きちんと手順を踏んで作ってくれたらしい。
 要は注いでかき混ぜるだけの代物だが、だからこそ、作り手によって微妙な
差異が出る。兄の出してくれたそれは、当然の事ながら俺の好みにぴったりと
沿っていた。
「ん、うまいよ」
 目許を笑ませれば、当たり前だという顔をされた。
 愛すべき兄の、その心遣いに感謝。


 俺に熱冷ましは要らない。
 どんな毒も病気も、アンタさえいればどうという事はないからだ。
 だから。


 傍にいてくれ。ずっと傍に。




Z'z gardenのzunさんのところで公開されていた、口調バトンに触発。
キャラクターの口調を真似て日記を書くという趣向だったのだが、
それをそのまま引き継いでも、千篇一律の己の日常など面白くも何ともない
(特に管理人が)。なので、日記のその後を妄想。
妙なバトンの受け取り方をOKしてくれて有難う、zunさん。




《了》
SEO [PR] !uO z[y[WJ Cu