Cookin' in the Kitchen


 何の話をしていたのだったか、きっかけは忘れた。
 俺にはそんな意識はなかったのだが、会話の何かが兄の琴線に触れたらしい。
あの、仏頂面が服を着て歩いているような兄が、珍しく声を立てて笑った。
 他人なら軽く笑い声を上げたというところだろうが、相手はこの兄だ。殆ど
大爆笑に近い。
「な、何だよ」
「いや、悪い……莫迦に、している訳では、ないのだが……」
 何とか笑いの発作を抑えようとはしているのだが、それは余り成功している
とは言えなかった。
「そんなにおかしな事を言ったか、俺?」
 お前はおかしくない、おかしいのは俺だ。
 そういう兄の表情を見ている内に俺にまで笑いが伝染し、結局一緒になって
笑い続ける羽目になった。


 昨日は久し振りに沢山笑ったような気がする。
 何だかやけに幸せな気分で、俺は目を開いた。
「……?」
 視界が歪んでいた。おまけに身体も重い。
『風邪でも引いたのか?』
 まだ半分寝惚けたまま、ぼんやりと目をこする。
 いつもと同じ、自分の部屋だ。光の加減からいって、午後も遅い時間だ。
 学校帰りらしい子供達の騒ぐ声が風に乗ってここまで届く。階下からは兄の
安定した気配がする。
 これが安らぎって奴かね。
 似合わない感想を脳裡に浮かべながら俺は身を起こし、漸く異変に気付いた。
 周囲に散らばる黒い破片。
 腹の上にちょんと乗っている、奇妙な物体。
「………」
 数秒間、それと視線を合わせたあと。
 俺は我ながら情けない悲鳴を上げた。


 全身に全く力が入らない。立っているだけでやっとの有様だ。
「起きるなり何だ、黒光りした虫でもいたのか」
 俺はよろよろしながら、何とか階下に這い降りてきた。こちらに背を向けた
まま、優雅に紅茶を嗜む兄の後頭部に蹴りでも入れてやりたい気分だったが、
生憎そんな気力は欠片程も残っていなかった。
「そんなんでびびる訳ねぇだろ」
 尤も、たとえ蹴り飛ばすような元気があったとしても、結果は火を見るより
明らかだ。実行に移した事はない。
 俺は柱に摑まったまま、何とか声を絞り出した。
「それより、ちょっとこっちを向いてくれねぇか。これ、どう思う?」
「……?」
 一体何事だ、と振り返った顔が無表情に強張った。
 沈黙が垂れ込める。
「何だそれは」
 漸く石像から元に戻った兄が、ぎしっと音が聞こえてきそうなぎこちなさで
人差し指を上げ、俺を——というより俺の腰辺りを指す。
「知らねぇ。起きたらいた」
 俺が移動するのに併せ、服の裾を握ったままついてくる——凡そ、悪魔狩り
を生業とする者の傍にいるには似つかわしくない、小さな生き物。
 事務所の装飾が面白いらしく、目と口を大きく開いたままきょろきょろして
いる。視線を感じたのか、銀色の旋毛がひょいと動いた。
 兄と視線が合う。
 こう表現するのも痒くて厭だが、天使のような笑みがぱっとこぼれた。
 そのまま何を思ったのか、兄の方へ向かって駆けていく。
 何をする気だ、やめろ莫迦、殴られるぞ。
 制止の声は出なかった。
 そいつは兄の仏頂面に臆する事もなく、勢いのままに抱きついた。
 ぶっ飛ばされると思ったが、予想は外れた。歳の離れた兄か、若過ぎる父親
といった風情で子供を抱き上げる仕種も堂に入っている。
「隠し子か」
「な訳ないだろうが! 良く見ろ!!」
 兄は腕の中の子供と目を合わせた。
 子供は無心に縋りついている。全身、これ甘えまくりだ。
「解っている。戯言だ」
 人の悪い笑みを浮かべた兄は、抱き上げたそれの頭を優しく撫でた。
「冗談きついぜ、全く……」
 俺の動揺混じりのぼやきが面白かったのか、子供は楽しそうに笑った。


「俺がなったからお前もそろそろだろうな、とは思っていたが……また随分と
変わった成長の仕方だな。分裂するとは、単細胞生物か」
「俺に解る訳ないだろ? というか、さりげなく酷いぜ、兄貴」
 仰け反った先、逆さまの視界の中で《俺》の相手をしている兄がいる。
 怠さに負けて長椅子に座っていられず、俺は横倒しになっていた。兄も《俺》
を抱えたまま、すぐ隣に腰を下ろしている。
「どう見てもお前だな」
 膝の上に陣取り、髪を引っ張ったり顔を触ったり、袖の釦を外してみたりと
ひと時もじっとしていない《俺》。小さい事を利用して怒りを巧く躱している
のか、あの兄がそれを怒声も上げず構っている。
「やる事なす事そっくりだ」
「……俺なんだから当たり前だろ」
 最早、声を出すのも億劫で、俺は自堕落に寝そべったままぼそぼそ呟いた。
 頭を撫でられたのが嬉しいのか、子供らしい甲高い声で笑っている《俺》。
「う……」
 世界が回っているのは、果たして体調不良のせいばかりだろうか。
 俺は気を取り直し、何とか声を出した。
「なぁ兄貴」
「何だ」
《俺》は酷く御機嫌なようだ。驚いた事に、兄の方も心なしか楽しそうだ。
「兄貴も成長の時、こんなに脱力していたのか」
「ある程度はな。そこまで酷くはなかったような気もするが」
「個人差って訳か——っておい、それは何だよそれは!」
 兄と頬ずりを始めた《俺》に向かい、むかついた俺は手を伸ばした。勿論、
引き離すためだ。
「こら、手荒な真似はするな」
「兄貴、それ俺。解ってる?」
「お前でもは子供だろうが」
《俺》も兄が護ってくれる事を解っているのか、膝の上からあかんべえをして
くる。余計にむかつく。
 俺は《俺》を引き剥がすのは諦め、元通りぐったりと横たわった。
 流石に哀れに思ったのか、兄は《俺》だけでなく俺の頭も撫でた。
 何か違うような気もする。俺は別に頭を撫でて欲しかった訳ではなくて——
 そんな俺の秘かな煩悶に気付く筈もない兄は、目許に乱れかかっていた前髪
を優しく払った。
「恐らく、これはお前の影だ。成長に伴って、一時的に力を巧く制御できなく
なっているだけだろう」
 心配せずともその内、元に戻る筈だ。
 安心させるように二〜三度往復した手は、静かに離れた。
「なる程な……」
 それだけ言うのがやっとだ。
 無論、兄だって全てを知っている訳ではないだろう。大体、成長については
子供の頃に一度だけしか聞いていないのだ。聞きそびれた事もあっただろうし、
そもそも俺はろくに覚えていなかった。兄が倒れた時には、恥ずかしい話だが
恐怖の余り何もできなかったくらいだ。
 だが、兄の言はそう大きく間違ってはいないような気がする。
「すぐ戻ってくれる事を祈るぜ……」
 こんな有様では悪魔共とやり合うどころか、普段通りの生活もままならない。
 怠い。
 とにかく怠い。
 ひょっとして、《俺》に力を吸い取られているんじゃないのかとも思う。
 流石にいつもの十分の一も口数の減った俺を心配になったのか、兄は《俺》
を下ろし、こちらへ屈んだ。
「おい、大丈夫か?」
「あー、あんまり大丈夫じゃ——ぐえ」
 いきなり《俺》が腹の上に飛び乗ってきた。
「こら、余り乱暴にするものじゃない」
 俺が悶絶しているのを尻目に、兄は《俺》を優しく抱き取った。
「何だ、腹でも空いたのか」
 たちまち機嫌を直す《俺》。我ながら現金過ぎだ。
 何か食べるか?
 などと言いながら、俺を置き去りに台所へいく二人。兄の肩越しに《俺》が
小悪魔の笑みを投げて寄越すのが、また堪えた。
「……お兄ちゃん酷ぇよ」
 最早、気力も根こそぎ萎えた状態で、俺は突っ伏した。


 世界が回っている。
 怠さはまだ取れない。
 台所からは何やら賑やかな笑い声と物音が響いてくる。
 俺はといえば、相変わらず長椅子にひっくり返ったまま、ただ息をしている。
『吐き気がないのが救いだな』
 全身が発熱したように熱い。関節も、痛いような重いような不快感を送って
寄越す。
『良くこの状態でうろつけたな』
 数日に亘って続いた兄の成長期を思い返す。
 悪魔としての力は全く使えなくなっていたが、普通に寝起きし、いつも通り
きびきびと生活していた。
 ここまで酷くはなかった、とは言われたが……
『恰好悪ぃ。これじゃあ、俺が滅茶苦茶だらしないみたいじゃねぇか』
 しかし、どう取り繕っても身体に力が入らないのは事実だ。今夜、自室まで
戻れるかどうかも怪しい。
 こんな事なら、黙って部屋で寝ていれば良かった。
 軽い後悔に苛まれながら、俺はゆっくりと目を閉じた。


 ひやりと冷たいものが額に当てられ、俺はいつの間にか眠ってしまっていた
事に気付いた。
「気分はどうだ」
「……減らず口が思いつかないくらいで、あとは普通だな」
「それは重症だな」
 眉間に皺が寄っている。《俺》の奴、何か悪さをしたんじゃないだろうな。
「熱いな」
 額から頬に暫く留まっていたそれは、兄の左手だった。
 顳顬から耳許にかけ、冷気を移すように何度も触れてくる。
「俺は一週間程で済んだが……これも個人差があるとなると」
「はぁ。やれやれだぜ」
 夢だった事にしたかったが、やはり《俺》はまだいた。横から物珍しそうに
覗き込んでくる。
〝いいかい、二人共。その時がきたら必ず相手を護るんだ〟
 今更ながら、親父のあの言葉を思い返す。
〝お互いに相手を護ってくれたら私も安心だな〟
『確かにな』
 記憶の中の父の姿へ語りかける。
 こんな状況で、万が一にも悪魔に襲われれば、ろくでもない事になる。
《俺》はすぐに飽きたらしい。
 長椅子からぽんと飛び降りると、室内をうろうろ歩き回り始めた。壁に縫い
留められたままの戦利品を揶揄って遊び始める。
 いくら俺の影とはいえ余りにも危機感のないその様子に、妙な羨ましささえ
感じながら眺めていると。
「何か食べられそうか」
 いつの間にか、労るように首筋まで移動していた掌が、ゆっくりと唇にまで
戻ってきていた。かさついているのに気付いたらしく、何度か撫でてくる。
「え……俺の分もあるのか?」
 兄は一瞬虚を突かれたかのように瞬きし、それから苦笑した。
「具合の悪いお前を放っておいて、自分だけ食べる訳がないだろう」
 今度は俺が何と言ったらいいものやら、表情の選択に困る羽目になった。


「頼むから、それだけはやめてくれ」
 目の前には粥が置いてある。それを見て、どれだけ空腹だったか思い出した
のはまだいい。
 俺は、自分としては必死に抵抗をしていた。それが、随分と弱々しいものに
しかならなかったのが、また腹立たしい。
 兄は、俺のそんな無駄な踠きを一顧だにしなかった。
「その有様でどうやって食べる気だ? 手に力が入っていないだろう」
 ろくに身体を支えられずにいた俺を、よりによって兄は片腕で抱き起こし、
匙を口許に差しつけてきたのだ。
「ほら、口を開けろ」
「………」
「駄々をこねるな。これ以上手を焼かせるなら口移しにするぞ」
「はあ!? いくら何でもそれ——あ」
 それは勘弁してくれ。
 制止しようと口を開いたところへ強引に粥を押し込まれ、図られた事を知る。
 にやりと人の悪い笑みを浮かべる兄の表情をうっかり見上げてしまい、俺は
悶死しそうになった。
「熱くないか?」
「………………ああ」
 一回食べてしまえば、いいも悪いもない。
 結局、俺はその状態で食事を摂る羽目になった。
 不思議とその間、《俺》は邪魔しにこなかった。机の上に飾ってあった母の
写真を慎重に取り上げ、じっと眺めたままおとなしくしている。
 絶対に邪魔しにくると思ったんだが、どういう風の吹き回しだ?
 普段の倍以上の時間をかけて食事を済ませたあと、兄は難しい顔をしたまま
俺と《俺》を等分に眺めやった。
「怠さはどうだ」
「んん、あんまり変わらねぇな」
 食事を摂った事で多少は元気が出たのはいいのだが、余計な事で疲れもした
ので差し引き零のままの俺は、軽く肩を竦めてみせた。
《俺》の方は、と見ると、また兄に引っついている。
 厭になる程元気だ。
 まつわりついてくる《俺》を、殆ど無意識に膝に抱き上げている兄。しかも、
考え込んだまま背中を撫でている。
『絶対に何をしているか意識してないぞ、あれは』
 普段、全てを律している兄の些か気の抜けたような姿に、俺は苦笑を堪えた。
 ここで俺が一緒になって抱きしめたら、間違いなく踵落とし炸裂だな。
 取り留めなくそう考えた俺は、次の瞬間、大いに引きつった。
《俺》が、想像した通りそのままの仕種で兄に抱きついたからだ。顔を胸許に
埋め、力一杯甘えている。
「どうした、眠いのか?」
 笑みを薄く唇に上せた兄は、ここ暫く見た事もない程、優しい目をしていた。
 幸せに腰砕けになった状態で、俺はその思考を停められなかった。
「うわっ、やめろ莫迦!」
 思った事がそのまま反映される、と理解した途端にこれだ。
「?」
 兄の方は微笑みを残したまま、軽く顔を傾けている。
 鼻先にぶつかりそうな位置で動きを止めた《俺》は、そこで何を思ったのか
ゆっくりとこちらへ振り返った。
 動揺しまくっている俺をとっくりと眺めたあと、《俺》は実に不敵な笑みを
浮かべた——凡そ、その歳の子供ならできそうにない、あくどい笑みだ。
「弱虫」
 笑ったまま、《俺》の姿がかき消える。
 兄が驚きの声を上げる。
 それはそうだろう。いきなり腕に抱いていた《俺》がいなくなったのだから。
 と同時に、得体の知れない虚脱感が嘘のようになくなり、俺は大仰に溜息を
つきながら身を起こした。半日振りくらいにまともな体勢で椅子に座った俺の
傍に、滑り込むようにして兄が膝を突く。
「おい、大丈夫か!?」
「あ? ああ。もう何ともねぇよ」
 顰めた眉に明らかな懸念を滲ませたまま、兄は俺の顔に手をかけた。
「どこか怠いとか、調子の悪いところはないか?」
「平気だって」
 その切羽詰まったような物言いに、俺の方も鼓動が妙な駆け足になる。
「そうか……良かった」
 今度は間違いなく俺を腕に収めたまま、兄は魂が抜けそうな吐息をついた。
 俺も大概変だったが、今日は兄貴も相当なものらしい。
「お前を——」
 掠れたような声が耳許に吹き込まれる。
「ん?」
「お前を安心させようと、何でもない振りをしていたがな」
「ああ」
 確かに今なら解る。もし兄も一緒になって動揺していたら、俺はこの事態を
もっとずっと不安に感じたろう。
 そういうところは、やはり兄だ。
「俺の時とも余りに違っていたし……本当は自分を罵っていた」
「兄貴?」
 静かに身を離される。
 視界に入ってきた表情は、僅かな苦渋と大幅な安堵に彩られていた。
「どうして父にもっと詳しく話を聞いておかなかったのだろう、とな」
 眉間に寄せられた懊悩が、とどの詰まり全て自分に向けられていたものだと
俺はここに至って初めて理解した。
 理解すると同時に、いたたまれなさも最高潮に達した。
「え、いや、俺なんか忘れてたし……そんな、兄貴が済まながる事じゃ——」
 違う、そうじゃない、そんな事を言いたい訳じゃない。
 俺は、余りにも弁解がましい言葉を途中で切った。
『それに……弱虫と言われちゃ、引き下がれないしな』
「なあ、兄貴」
 俺の呼びかけに、兄は視線を併せてきた。
「アンタはちゃんと護ってくれたろ?」
 子供の頃、父の前で誇らかに宣言した通り。
「約束、忘れずにいてくれただろう?」
 すっかり忘れ果てていた莫迦な俺と違って。
「だから、そんなに自分を責めないでくれ」
 半日、自由の利かなかった身体を漸く自分の意志で動かせる喜び。
 俯きがちだった顔を上げさせ、秀でた額から頬にかけて両掌を這わせる。
「………」
「ほら、ちゃんと礼くらい言わせてくれよ」
 俺、本当に嬉しかったんだぜ、アンタが本気で心配してくれた事が。
 止まっていた時が、漸く動き出したような気がする。
「有難う」
 俺はその言葉をそっと唇に乗せた——







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