Is this Real?


 何だかやけにがたがたと煩いと思いながら、俺は寝ぼけ眼を開いた。時計の
針を睨みつければ、時間はまだ早朝といってもいいくらいだ。
 尤も、それは俺にとっての《早朝》という意味だ。世間一般的にはそろそろ
昼でもどうかという時分だ。
 それにしても、珍しい事もあるものだ。普段は騒々しい事など、間違っても
率先してやるような性格ではないのだが。
「……一体、何をやってるんだ?」
 抜き差しならぬ事態が起きている様子はなかった。伝わってくる気配からも
それは瞭らかだ。
 俺は寝乱れた髪をかき上げた。顎が外れそうな程、大きな欠伸も飛び出す。
 依頼の最中であれば不眠不休で戦い続ける事も良くあるが、休日はこの通り、
至って気楽なものだ。油断している訳ではないが、どうしても兄がいてくれる
と思うと——
 部屋の入口、扉を隔ててすぐの廊下にあいつの気配がふわりと寄り添った。
殆ど条件反射のように、肩から力が抜ける。
「起きているか」
 遠慮がちにかけられる声。
 もしも俺が眠っていたなら気付かない程の声量だ。
「ああ、起きてる」
 俺は上体を自堕落に伸ばしたまま、もう一度盛大に欠伸をした。
「何だか賑やかだな」
 目尻に溜まった涙を無意識にこする。
「済まん、やはり起こしたか」
「あ、いや、そろそろ起きようかと思ってたし」
 どうという事もない会話。
 まるで、兄弟揃ってずっと共に暮らしてきたかのような錯覚さえ覚える。
 確かにあんな事さえなければ、両親の元で人間のように成長し、学校へいき、
普通の仕事を持って独立していただろう。続くかどうかはさておいても。
 ひょっとしたら、悪魔としての覚醒もなかったかも知れない。少なくとも、
父親の指導下、もっと緩やかに発現しただろうと思う——あれ程の痛苦と共に
ではなく、何度も生命さえ落としそうになる事もなく。
 しかし、余りに平和過ぎ、己の願望そのままで不安になる。
 言葉をかければ応えてくれる静かな声がある。
 その、あり得ない程の幸福感に眩暈さえ覚える。
 これは本当に現実の事なのか。
 夢を見ているのではないのか。
 ほっと肩の力を抜いた途端、夢から醒めるのかも知れない。
 そして、全ては泡沫と消え果てたとしても——
 不意に過る恐怖。
 ……よそう。
 俺も兄も今、生きてここにいる。
 それでいいじゃないか。
「ところで、何やってるんだ?」
 暗くなりかけた想念を引き戻し、俺は身を起こしながら問いを発した。
「ちょっとした片付けだ。お前も起きたなら手伝え」
「?」


 顔を洗ってさっぱりしたところで兄の気配を探れば、食堂の方らしい。
「兄貴! どこを片付——!?」
 俺は妙なところで息を飲んだ。扉を開けかけたまま、中途半端に硬直する。
「きたか。食事を終えたら、悪いが手伝ってくれないか」
「………」
 これは夢だ。
 それも、とびきりの悪夢だ。
 いつまでも芳しい反応を見せない俺を訝しく思ったのか、兄は軽く疑問符を
浮かべた表情を傾げた。恐ろしく違和感のある情景の中に、何の変わった事も
ないといわんばかりの兄の態度。
「どうかしたのか?」
 どうかしているのはアンタの方だ!
 本音が咽喉元までせり上がってきたが、辛うじてそれは堪えた。
 普段からかっちりとした服しか着ない兄が、今日は余りにも楽過ぎる恰好で
佇んでいた。
 暑いのか面倒だったのか、釦は半分も留めていない上に、袖は肘までまくり
上げている。とどめに、いつもならきちんと整えている髪も下ろしたままだ。
仲介屋辺りがその姿を見たなら、完全に俺と見間違えるだろう。この俺でさえ
一瞬、鏡を見たのかと思った程だ。
「……いや、何でもない。取り敢えず、一杯貰うかな」
「昼間から酒か。やめておけ」
 座るよう促され、瞬く間に食卓に並ぶのは軽食というには些か量の多過ぎる
料理だった。
 幼少の想い出が過る。それは母親が存命の頃、俺達兄弟に作ってくれた好物
ばかりだった。
「……聞いていいか」
「何だ」
「これ作ったのって……やっぱり……」
 恐るおそる聞いたのが悪かったのか、兄は不興そうに眉を顰めた。
「不味いと言いたいのか? 口にもしない内からいい度胸だな」
 その姿恰好も相俟って、酷く調子が狂う。
「いや、そういう意味じゃなくてよ……」
 俺も、多分兄も一人暮らしが長かったので、それなりの料理はできる。だが、
これはそれなり程度では巧くできないものばかりだ。
 少なくとも、俺には無理だ。思い出の味を再現しようと何度か無駄な踠きを
した事もあるが、いつも撃沈していた。
「何だ、はっきりしない奴だな。食うのか食わないのか」
「勿論喰う」
 今にも下げられそうになり、俺は慌てて制止した。
 大体、良く考えてみれば、兄がこうして手の込んだものを作ってくれたのは
初めてだ。
「いただきます」
 緊張しながらというのもおかしな話だが、早速食べてみる。
「凄ぇ。まんまその味だよ、兄貴」
「ふん」
 手放しで感動したのが面映かったのか、兄はさっと背を向けた。最前、作り
かけていた何かに意識を戻したようだ。何となく甘い匂いも漂ってくる。
『……祝い事でもあったか??』
 疑問が鋭利な刃のように脳髄を貫き——




 俺はゆっくりと浮遊していた意識をたぐり寄せた。
 目を開けば、そこは見慣れた事務所の風景だった。
「………」
 やはりという思いと、深甚たる落胆。
 平穏過ぎて、余りに現実味がなかった。
 目醒めれば、その甘苦い余韻に嗤笑が洩れる。
 しかし、夢を見ている間はそれこそが真実だった。
 強烈な悔恨に心臓を痛打され、俺は歯を食いしばった。
 あり得なかった——けれど、あり得たかも知れない想い出。
 無意識に、居住部へと続く扉に視線を投げる。今にも兄が姿を現わしそうに
思えた。まるで何事もなかったかのような無表情で。
『何をやってるんだ、俺は』
 先刻から沈黙を守り続ける電話機を睨みつける。こんな時こそ雑魚でもいい
から悪魔を相手取り、一暴れしたいところだというのに。


 いつか、必ず。
 その意志に揺らぎはないが、手段一つも思いつかない現状では虚しかった。
 呟く、兄の名前。
 今はここにいないその存在が、これ程までに身を嘖む。
 悪魔を狩るのとは訳が違う。何をどう言い繕っても、俺が血族を手にかけた
事実は覆らない。その前では、兄も望んでいたなどというちゃちな言い訳など
霞んでいく。
 断罪するかのように、見る夢は優しい。
 そこが幸せに満ちていればいる程、現実はまるで醒めない悪夢だ。
 ——俺がこの手で終わらせたってのにな。


 なあ。言ってもいいか?
 早く俺を起こしてくれ。







《了》
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