約束の海


 俺は緊張に強張った指を何とか肘掛けから離そうと、虚しい努力をくり返した。
 幾度かそれは成功しそうになったのだが、その度に下の方から物理的な力さえ
伴って轟いてくる号音や心臓の上の圧迫感に邪魔をされ、結局はまたしがみつく
羽目になる。
 大丈夫だ、大丈夫なんだ。
 そう自分に何度も言い聞かせてはみるが、“これ”は理性で制御できる範囲を
あっさりと超えていた。
「おい、肩の力を抜け」
 俺の隣で、嫌味たらしくも余裕の表情で座っている男。
「そんなに構えていると、気を失うぞ」
「解ってる!」
 自分でも悲鳴のような声だと思う。だが、もうどうする事もできない。
 そうさ、俺は怖いんだ。
 怖くて怖くて堪らないんだ。
「落ち着け。あと数秒で機関が停止する。一番きついのはもう過ぎた」
 その言葉と共に、呼吸を止めかねない圧迫感が嘘のように消えた。
 がくんと船体が揺れ、それまでずっと轟いていた騒音も消える。
 俺は恥も外聞もなく、大きく吐息をついた。
「流石のお前さんも、こういう場合のVR訓練は受けてこなかったようだな」
「……ああ」
 呼吸はまともにできるようになったが、まだ動悸は収まらない。問いに応える
声もかすれがちだ。
 そもそも、誰がこんな事例を想定してプログラムを組むだろう。
 俺は“ここ”にくるだけで既にぐったりとしてしまった精神に喝を入れるべく、
何度か深呼吸をくり返した――


「何だって!?」
 俺は電話口に向かって叫んだ。
 その余りの剣幕に、ローズが怪訝そうな顔をしてこちらを見るのが解る。俺は
慌てて声のトーンを落とした。
「済まないが、もう一度言ってくれないか?」
〔ごめん。ほんとにいきなりで悪いと思っているよ〕
 それは解った。あれっきり全く音沙汰のなかったあんた達が、こうして無事に
活動している事も解った。
 だが、今更だ。
 何故今頃になって俺に白羽の矢が立つんだ?
〔ただ、“場所”が問題でね。どう頑張っても僕は行けそうにない〕
「何を言っているんだ。潜入はいつも単独が原則だろう?」
 極力無用の衝突を避けるため潜入は少数精鋭、できれば単独が好ましい。殊更
俺などに言われなくても、自分達の方が良く知っているだろうに。
〔そうなんだけどね〕
 へらっと笑う様子が目に見えるようだ。
〔潜入先がちょっと変わってる上に、事は急を要するんだ。お願いだ、ジャック。
スネークと一緒に潜入任務に就いて欲しい〕
 経験があって余計な詮索はせず、すぐに動けそうな知り合い、という事で俺を
思い出したらしい。全く有難い事だ。
「……で、どこに潜入するんだって?」
 俺は溜息混じりに、問いを発した。
 恐らく、この話を聞けば暫く戻っては来れないだろう。
 それに、間違いなくローズには難癖をつけられるに違いない。
 だが、俺は奇妙な興奮が身の内を駆け巡るのを感じた。
 また、彼らと行動を共にできる――
〔流石に電話じゃ、これ以上話せない。一度ブリーフィングもしておきたいし、
今から出て来れるかい?〕
「解った」
 俺は博士から伝えられた住所を走り書きし、電話を切った。
 さて、第一の問題は……
 心配げにこちらを見守っていたローズに事の顛末を話し、尚且つ納得して貰う
という難しい任務をこなさない事には先に進めない。
 俺は何とか穏便に済む方法を模索しながら、彼女の傍へ歩み寄った。


「――潜入地点へ到着……二人共無事だ。問題ない……ああ、ちゃんと忘れずに
持ってきているさ」
 俺は通信を始めた奴の背後を護るように立ち、油断なく辺りを見回した。流石
に灯は非常灯だけで酷く薄暗いが、周囲を確認するには問題なかった。
 この異様なまでの身体の軽さを除けば、これはいつもの潜入と変わりない――
何も変わりはないんだ。
 俺は自分にそう言い聞かせた。
 そうでもしないと、どうにも落ち着かない気分になる。
 それにしても、非合法に建設されているとは思えない程、ここの施設は清潔で
広大だ。極普通の《宇宙ステーション》にしか思えない。
 しかし、これ程の大規模施設を一体どうやって秘密裡に造り上げたのだろう。
これも愛国者達による、情報操作の歪んだ賜物なのだろうか。
〔雷電、君の方は大丈夫かい? 息が詰まったりとか……苦しくないかい?〕
 先刻の醜態が余程頼りないように見えたのか、随分と不安そうに聞こえるのは
果たして気のせいなのだろうか。
「――大丈夫だ」
 俺は冷静に聞こえるよう、努めて平坦な口調で返した。
〔そう……なら、良かった〕
 事実は息こそ苦しくはないものの、妙な浮遊感に胃の腑が怪しい。醜態だけは
見せたくないのだが。
 俺は込み上げてくるものを無理矢理嚥下しながら、額に薄く浮いた気味の悪い
汗を拭った。
「いくぞ」
 どうやら通信は終わったらしい、嫌味な程落ち着き払った声音で、スネークが
声をかけてくる。
「ああ」
 平然としたふりを装っても、ごくりと唾を飲み込む音は聞こえたろう。
 いよいよだ。
 はめ殺しになった窓――というか何というのか、その外に広がる暗く、冷たく、
恐ろしいまでの虚無を見遼かし、小さく身震いする。
『落ち着け、大丈夫だ』
 軽く息を吸い、俺は黙ってスネークの横についた。




 カッカッと、ヒールの踵が堅い音をさせて徐々に近付いてくる。
 怒れる大魔人の御登場だ。
 僕は肩を竦めつつ次に起こるであろう事態に備え、防禦を固めた。
「オタコンさんっ」
 いっそ外れないのが不思議だといえる勢いで壁に叩きつけられた扉は、ぎぃと
不平そうな音をさせた。
「や、やあ、ローズマリー。随分早かったね」
 僕は微笑みらしきものを何とか浮かべながら、振り返った。その勇気も彼女の
怒り心頭に達した表情を見て、あっさり消えていく。
「ジャックはどこ!? もうスネークさんと潜入任務に入ってしまったの!?」
 逃げたくなったが、僕がここから離れる訳にはいかないのは自明の理だ。
「え、あー、うん。実はそうなんだ」
 彼女の表情が、更に非友好的なものに変わる。
「あんないい加減な説明じゃ、納得できないから来てみれば……とっくに任務に
就いてるなんて!!」
 レーザーのように鋭い視線が、僕の隣の空いたコンソールに止まる。
「ジャックのサポートはわたしがやらせて貰うわ。異存はありませんよね!」
「も、勿論。助かるよ……ははは」
 ごめんよ雷電。
 僕には、彼女を止める実力も勇気もないよ。




「さて、若いの」
「………」
 相変わらずの呼びかけにちょっと凹むが、歴戦の勇士から見れば俺などひよこ
にしか見えないのは、この際仕方がないだろう。“こわっぱ”と呼ばれないだけ
まだましだ、と思う事にする。
「オタコンの調査でここには人間はいない……事になっている」
『俺達以外には、な』
 目線で続きを問う。
「恐らく警備とはいっても、施設の整備・維持用のロボットが大半だろう」
「だろうな」
 シャトルであっさりと横付けできた事からも、それは充分予想の内だ。
 だからといって、無警戒でいていい筈もないが。
「俺達の目的は二つ。この場所で非合法にメタルギアが開発されているという、
動かぬ証拠を広く知らしめる事」
「写真でも撮ろうっていうのか?」
「その通りだ」
 茶化すつもりが大真面目に返されて、どういう反応をすればいいのだ。
「こいつを使え」
 渡されたのはデジカメだ。
 やれやれ、またか。撮影するのは得意じゃないんだが。
「もう一つは?」
 げんなりした面持ちで受け取り、先を促す。
「ここを無力化する」
 事もなげに言い放ち、物騒なものを次々に取り出すスネーク。
「メタルギア開発の証拠を公開する、というのは……まあ、言ってみれば一種の
示威行為だ。恐らく相手方は、公表された時点で俺達諸共ここを沈めようとして
くるだろう」
「……不幸な事故を装う訳か」
「ああ、デブリとの接触とでも言い包めてくる筈だ」
 常套手段だな。
 世間が何と言おうと、そして疑わしい証拠が多数上げられても現物がなければ
何とでも言い逃れできる。
 しかも、世界には多くの情報が満ち溢れている。
 数日――それどころか数時間も立たない内に、新たな情報の大波は古いものを
次々に駆逐していく。人々の興味はすぐに薄れ、消えていくという算段だ。
「ここから二手に別れよう。お前さんは撮影を頼む」
「解った」
「俺はオタコンと協力してシステムを黙らせる」
 ブリーフィングで貰った図面には、ステーションの右翼に妙な空白があった。
大きさからいって、恐らくハンガーだ。
 ちらりと投げた視線の先、薄赤い光に沈んだ廊下。
 不意に過った記憶。
 俺はゆっくりかぶりを振った。
「何かあったらすぐに俺を呼べ、いいな」
「ああ、こっちは任せてくれ」
「センパー・ファイ」
 あの時と同じ敬礼に似た仕草を見せたスネークは、奥の暗がりに消えていった。
 それはごく自然な仕草で、その辺に散歩にいくような気安さだ。
 勿論、油断している訳ではないだろう。寧ろその逆だ。
「変わってないな……」
 久し振りに見たスネークは、やはり《伝説の傭兵》だった。本人にそう言うと
不愉快そうな顔をするので、直接は言わないが。
『やっぱり憧れているんだろうな……』
 あれだけの目に遭ったのだ、正直いって二度と会う事もないとも思っていた。
それが何の因果か、こうしてまたチームを組んでいる。
 軽く首を振った俺はUSPを取り出すと、用心しいしい前進を始めた。





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