Bis der Himmel sich dreht 1


 暮れ泥む空を見上げる。
 どこかに、あの翡翠色のげた風船が見えないだろうかと。
 誰に未練がましいといわれようと女々しいといわれようと、結局毎日のよう
に空を見上げてしまう。哀しい日課。
 曇天の隙間を縫って朱い光が辺りを染め上げている。陳腐な表現だが、血の
海に沈んでいるかのようだ。吹き過ぎる冷たい風が、そろそろコートが必要な
事を小さく教えてきてくれる。すっかり温みを失ったそれは、あの日々が確実
に過ぎ去ってしまった事を否が応でも教えてくれた。
 仕事を終えたサラリーマンの流れと共に、俺も帰宅の途へつく。代わり映え
のしない日常。少し前まではそこに世間的には非日常、俺達にとって極普通の
事象が織り込まれていた。
 それなりに危険な目にも遭った。
 そこそこ楽しい事も沢山あった。
 友人や理解者も増えた。
 でも、今はもういない。
 つき合いが跡絶えた訳ではなかった。折に触れ某かの連絡は取り合っている。
ただ、その繋がりの真ん中にいた筈の彼だけがいない。
 虚ろな心に吹き続けた風を止めてくれた者は、もういない。
 ――いなくなってしまった。


 自宅へ戻り、諸々の些末事をして。
 静寂の中で座り込む。
 独りで過ごす時間は好きだ。己の思惟の中にどこまでも沈み込み、想い出の
中をゆっくり漫ろ歩いていける。
 一人を孤独と認識していなかった俺に、知らぬ間に支えをくれたあいつ。
 独りで立っている俺に頼る事を教えたあいつ。
 大上段に構えた愛をくれたあいつ。
 苦笑が洩れる。
 あいつの言葉はいつも難解だったが、その態度はいつもまっすぐだった。
『ほんとに、いい悪霊だったよな』
 いい悪霊、だなんて表現、そもそも文意が破綻している。
 でも、と俺は己の左手首を見た。
 不可視の物体だから一般人には見えない、それ。
 けれど、俺にはそれがはっきりと見えていた。あの日から何一つ変わらずに
ここにある――あいつがいなくなっても。
 淡く耀く翡翠を俺は右手で握り締めた。泣き顔は見せたくなかったから。


   ¶


 不意に目が醒めた。
 一瞬、自分がどこにいるのか判らなかった。
 灯り一つなく、目を開いているというのに何も見えない。
 辺りは静寂に包まれていた。夜の匂い。
 梢を渡る風の音、どこか遠くで幽かに響く鳥の声。
 ゆっくりとした呼吸は変えないまま、俺は耳を澄ませた。やはり遠くで自然
の立てる音をしか拾う事はできなかった。車の音も列車の音も、誰かの立てる
生活音すら聞こえない。
『どこだここは』
 自分の知る界隈は、流石に人間の気配がない程には鄙びていない。
 一応部屋らしきものの中で、どうやらベッドの上に転がっているらしい事は
解った。
 俺は身動ぎしようとして、後れ馳せながらそれが果たせない事に気付いた。
 背中に触れる、この気配。
「っ!!?」
 声を出す事はぎりぎりで堪えたが、今の今まで気がつかなかったのは、その
存在が余りにも自分の体温に馴染んでいたからだった。
 抱き竦めると抱き締めるの間程の抱擁。
 柔らかく、温かい吐息。
 何故これが今の今まで意識に触れなかったのか不思議なくらい、その気配は
身近にあった。そんな事を、まるで臆面もなく実行しそうな奴は俺の知る限り
一人しか思い当たらない。
 だが、そうと理解した瞬間、俺の背中を怖気が奔った。
 記憶のそれとは覿面に薫りが違った。
 似ている。けれど瞭らかに違う存在。
 疑問が恐怖となって全身を駆け巡る。
 これは――誰だ。
 目紛しく記憶が通り過ぎた。


 ほとほと困り果てた依頼人から本物のにおいを嗅ぎ取った俺達が連れ立って
向かったのは、景勝地に程近い廃墟だった。元は温泉宿だったらしいが、源泉
掛け流しではなかった上に昨今の不景気で閉鎖。
 そこを塒に集まってきた雑魚霊をどうにかする、というのが依頼の趣旨で、
それはいつものように軽く終了していた筈だ。
『あー、そうだ。故障だ』
 いざ帰る段になり、乗ってきた車が故障していた事に気付いたのだ。
 レンタル料が安いと即決したが、見たままのおんぼろだったらしい。
 既に陽は落ち、助けを呼ぼうにも携帯は生憎の圏外。土地勘もない中、徒歩
で夜道を移動するのは危険過ぎると判断し、時ならぬ宿泊になった。
 閉鎖されているとはいえ元旅館。取り壊すにも先立つものが必要な事とて、
内装なども手つかずのまま放置されたらしい。割と傷みの少ない部屋を物色し、
そのまま休む事にした。
 何か適当な事をだらだら話していた記憶はあるが、途中からそれが途切れて
いるところを見ると寝落ちしたらしい。
 そこまではいい。
 問題なのは、何故こんな態勢になり、剰え中身がいないのかだ。
 抜け出そうと身動いではみたものの、憑依体の意識もないというのに強固な
腕はまるで外れなかった。左腕は下から下腹部を抱え込み、右腕は上から肩を
抱いている。将にがっちりというしかない。背後はぴったりと寄せられた体躯
で、上掛けがなくとも温かい。
 尤も、寝返りは打てそうにない。筋肉質の足が俺の足に巻きつくようにして
かけられ、鼻先は襟足に突っ込まれている。どんな寝相をしたらこんな状況に
なるのか甚だ疑問だが、抱き枕宜しく抱えられていては正面切って文句を言う
事もできなかった。
「エクボの奴、どこ行ったんだ」
 代わりに、不在の悪霊の行方に思いを馳せる。こんなところで他人と一緒に
して転がしておくなんて、一体どこへ……そこまで考えた俺は真顔に戻った。
『女子供じゃあるまいし、何を阿呆な事を』
 抜かりのない悪霊の事だ、自分のいない間に、万が一にも肉体が目覚める事
のないよう、何らかの手立てを講じている事は想像に難くない。
 恐らく、俺が途中で起きるのも想定外の筈だ。
 一体何をしに出ているのかは知らないが、俺が寝ている間に全てを終わらせ、
朝には何食わぬ顔で傍にいるつもりなのだろう。俺と肉体を抛り捨て自分だけ
さっさと帰った訳ではないと無条件に信じられる程には、悪霊とのつき合いも
長い。下手に捜索しに出たりすれば行き違いになる可能性の方が高い。
『仕方ない、大人しくしておくか』


 知っているけれど知らない他人の体温と互いの呼吸音だけを共に、俺は静寂
の中を揺蕩っていた。
 夜光塗料がぼんやり反射する文字盤を確認したところ、針は二十七時をやや
過ぎたところを指している。あと僅かもすれば曙光がこの辺りを照らすだろう。
 眠気は差してこない。殆ど悪霊が熟したようなものだが、除霊で疲れている
筈で、実質三時間も寝ていないのに拘わらず。
『まさかこの男の存在が気になって眠れないとか』
 図太さに定評のある詐欺師、などと余り嬉しくない評を冠される事もある俺
だ。それだけはないと思い込んでいたが、そのまさかかも知れない。
 俺はそう思った、敢えて思い込もうとした。それが、単なる思い込みにしか
過ぎなかったと痛感したのは、その数分後だった。
〝霊幻……っと、起きちまってたか〟
 不意に視界の端を朧な翠碧の光が過り、悪霊が戻ってきた。薄闇で余り良く
見えはしないが、何か抱えている。
「ど、どこいってたんだ」
 無言のままでいたせいか、声が掠れて縺れた。
〝ああ、電話、圏外だったからよ。繋がるところまでいってきた〟
 まるで何でもない事のようにそう言ったエクボは、無造作に背後の男へ憑依
し直したらしかった。
 敢えて振り返らなくても感じる。あからさまに気配が変わった。同じように
腕を回していたのに、憑依体だけだった時とは抱き締め方が違った。
 瞬間、肩からはっきりと力が抜けたのが自分でも解って、身の置き所がなく
なる。それを無理矢理押し込み、俺は正面を向いたまま突っ込んだ。
「モブを叩き起こしたんじゃないだろうな」
 子供は当然寝ている時間だぞといえば、呆れたように鼻を鳴らした音が耳許
で聞こえた。
〝おいおい……年中無休、二十四時間対応、○AFにかけたに決まってんだろ〟
「……ならいいけど」
 安心したものの、俺の頭に新たな疑問が浮かび上がる。
「でも最初の予定じゃ朝になってから呼ぶつもりだったろう」
 何で急に予定を変えたんだ?
 疑問は咽喉許で停止した。
 首筋にエクボの温かな掌が触れていた。厳密にいえば憑依体の掌だが、先刻
から感じていた気配と今の気配とは厳然と違っている。
「エクボ……?」
〝やっぱちょっと熱ィな〟
「は? え?」
〝自覚ないか? オマエ、熱出てんだよ〟
 体温を確かめるように首筋を何度か撫でながら返した悪霊は、もう一方の手
で経口補水液を差し出してきた。
〝取り敢えず飲んどけよ〟


   ¶


 振り返る。
 想い出の中で変わらぬあくどい笑みを浮かべたあいつがこちらを見据える。
その眼の中に映る俺。
 咽喉が詰まったようになっているから飲む気にならないと断わる俺に、辛抱
強く、少しずつでいいから飲めと言い続けたエクボ。
 ウザいとか重いとかいう俺を宥めし、体温を分け与えてくれたエクボ。
 何て解り難くて直球の愛だったろう。
 直球過ぎて、あの時の俺には気付けなかったけれど。
 結局、朝を待たずに熱が上がり出し、まともに立つ事もできなくなった俺は
修理が終わった車の後部座席に抱き上げられて運ばれ、眠ったままで帰宅した。
〝全く、虚弱か! 普段からまともな飯を食ってないから、す〜ぐ栄養不足に
なるんだろ〟
 布団に押し込まれながらいいだけぶつくさ言われる。俺も釈然としない。
「煩ぇな。誰にも迷惑かけてないからいいだろ」
〝俺様にかけまくってるじゃネェか!!〟
『あ、これは誰も頼んでないだろなんて言ったら切れられる奴』
「あー、除霊トカ除霊トカ」
〝……ソウダ〟
 俺が棒読みで応えると、悪霊の方も些か口を滑らし過ぎた事に遅蒔きながら
気付いたらしく、同じく棒読みで返してきた。
 想い出の中を彷徨いながら、俺は息啜りを歯を食い縛って堪える。
「まぁ今回は悪かったよ。助かった」
 今回はって何だ、いつもだろうとまたブチ切れそうになっている悪霊に俺は
自信満々な霊能者の笑みを送った。
 今の俺も頑張って表情を作る。笑みになっているかは疑問だが。
 俺は生きている。あいつは生きていない。
 それはこんな事になる前から当然で、余りにも当たり前過ぎて、だから俺は
本当の意味で解っていなかった。
 ――いなくなる、その意味を。
「エクボ……」
 ぽつりと零れた声は、自分でも泣けてくる程に弱々しかった。


〝まぁ多分に瘴気のせいもあるだろうからな〟
「?」
 横になった俺の枕元でエクボが何やらごそごそしている。良く見ようと身を
起こそうとすると、いいから黙って寝ておけと押し戻された。
〝除霊する度に瘴気に中てられたり、霊障のせいで毎回俺様が迷惑を被るのも
面倒だからな〟
 嘯く悪霊の姿が徐々に光ってくる。綺麗な翡翠色の煌めきがその周囲を飛び
交っているのが零能力の自分にも見えるとは、相当だ。
〝こんなもんか〟
「エクボ――」
 彼が一体何をしようとしているのか不安になった俺は、ともかく制止しよう
と口を開きかけた。
〝大丈夫だ、痛くしネェよ〟
 偽悪的な笑みを浮かべた悪霊は、枕元から若干下側に下がった。その小さな
手が躊躇いなく俺の左手にかかり、何か囁きかける。次の瞬間、浮遊していた
煌めきが一気に集束した。勁く耀く翡翠の炎が俺の左手で揺らめく。不思議と
熱さは感じなかった。
〝よし完璧〟
 柔らかく布団に戻された左腕を上げてみれば、見慣れないものがついていた。
念珠のようなそれは、淡い翠碧色をしている。
「ブレスレット?」
〝簡単に言うと、バリア発生装置って奴だな〟
 こいつは余程の悪霊でないと破る事はできないぜ、と滅茶苦茶偉そうな顔で
自慢される。得意満面、褒めてもいいんだぜと言わんばかりだ。
 顔が熱くなったのが自分でも解った。暗闇で良かった。いや、相手は悪霊だ、
もしかしたら普通に見えているのかも知れないと思い当たると、今度は途轍も
なく恥ずかしくなってきた。
「……何だよそれは」
 結局、声に出せたのはそれだけだった。
〝おいおい、何だよそれって随分な御挨拶だな。零能力なオマエさんのために
わざわざ作ってやったのに。感謝ぐらいしてくれても罰は当たらないと思うぜ〟
「………」
 俺は何度か無為に口を開閉し、結局何も言えず沈黙を返した。
 自慢顔だった悪霊の表情が、徐々に苦笑へと塗り変わっていくのをただ見て
いた俺。
 何度も後悔する場面だ。
 あの時、素直に礼を述べていれば良かった――恥ずかしいだの照れるだのと
胸中だけで喚いていないで。


 あの日もあの時も、何故エクボは護ってくれようとしていたのだろう。最初
は俺の事を邪魔だと思っていただろうに。
 疑問もあったが、嬉しかった事は確かだ。
 そう、ただ嬉しかったのだ。
 最早答を聞く事は叶わない。
 俺の言葉を伝える術もない。
 今でも魂魄まで雁字搦めなのに、こうして何度も思い返す度、更に悪霊へと
囚われ縛りつけられていく。
 縛りつけられたまま、どこへもいけない。
 後悔だけが降り積もっていく。


 かけがえのなかった日々。
 ただ一人の存在を失う。その痛みを溢れんばかりに抱えたままで、俺はまた
孤独の道を歩いていかねばならない――胸の裡を吹き過ぎる、甘く優しい風に
凍えながら。







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