Bis der Himmel sich dreht 2


「霊幻先生、助けて下さい!」
 取り縋らんばかりに相談所へ駆け込んできたのは、ここ最近良く来るように
なった青年だった。漸く少年の域を脱出したばかりの大学生で、親元から離れ
独り暮らしを始めたところらしい。
 激変した環境にストレスがかかり、さらにはテストにバイトと疲労も重なり
意識散漫となっていた青年は赤信号にも関わらず横断歩道を渡り始め、あわや
のところを俺が助けた縁から彼の相談所通いは始まっていた。
「いらっしゃい。今日はどうされました?」
 落ち着かせるように極力意識して穏やかな笑みを浮かべ、一先ずソファへと
案内する。青年は、己が汗だくで駆け込んできた事実を漸く認識したらしく、
暑さのせいばかりではない紅潮が頬に浮かんだ。
「す、済みません」
 何度か相談を受け除霊も熟している関係上、青年の不安はすぐに把握する。
 見鬼というのか、幼い頃から見えてはいけないモノを否が応もなく見続けて
しまった彼は極度の恐がりだった。
 朦朧としたまま横断歩道を渡りかけたのも、半分以上は悪しきモノの引きが
あったからだ、とは取り憑いていた雑魚霊を喰い終わってからのエクボの言だ。
「大丈夫ですよ、ここはしっかり結界が張ってありますから」
 安心して下さいと言えば、僅かに落ち着きが戻った。
 嘘ではない。
 心配性の弟子と、悪霊の癖に面倒見がいいという、字面からいっても存在を
二重否定されるようなエクボの二人がかりで、そこそこ強力なものが張られて
いる。いつだったか俺を呪いで縛ってきた悪霊に酷い目に遭わされ、それから
二人共過保護になった――それはもう、やり過ぎというくらいに。
 冷えた麦茶を青年に出してやり、俺はいつものように聞く体勢に入った。
「俺、こんななんで部屋を選ぶ時にかなり気をつけたんですけれど」
 モブと悪霊の力を借りるまでは全くの無能力だった俺も少しは理解できる。
あれ以来、多少は見えるようになったとはいえ、俺のそれは入門者レベルだ。
安定しないので見えない事の方が多い。ところ構わず時間を問わず、ああいう
モノがくっきりはっきり見えるとは同情を禁じ得ない。下手なところだと見え
過ぎて大変だろう。
「この一週間ばかり、急に出てくるようになったんです」
 今住んでいるところは、口コミサイトから事故物件の噂サイト、不動産屋に
直接聞き込むなどして決めた部屋だそうだが、落ち着いて半年、どうも何かが
いるらしいと怯えている。
「本当は事故物件なのに、泊まり屋かなんかのクッションを挟んでいたんじゃ
ないかと」
 話している内にどんどん顔色が悪くなってくる。本当に駄目なのだろう。
「具体的にどういった現象が?」
「まずラップ音です。かなり大きい音なんで、気のせいじゃありません。境の
壁や天井、隣の部屋からもたまに聞こえてきます……隣は今空き部屋になって
いる筈なんですが。それから何かが部屋の隅に……見ないようにしているので
黒っぽいという事しか判りませんが、ヤバい感じです」
 取り出した手帳に青年の主張をつらつらと書き込み始めた俺は、続きを促す
ように視線を上げた。
「それと、水滴の音が……」
 青年は蒼白い顔から冷汗を流しながら、一度大きく息を吐いた。
「日中は全然大丈夫なんです。でも夜中、二時半過ぎくらいからだと思います。
どれだけしっかり蛇口を締めてあっても、ぽちゃん、ぽちゃんという音が」
「起きて様子を確認してみましたか?」
 勿論、と青年は頷いたが顔色の悪さは取れない。
「始めは単なる蛇口の緩みだと思って締め直していたんですが、すぐにまた」
「ふむ」
「それに俺、気付いたんです」
「ええ」
「シンクの中が全く濡れていない事に」
 俺は思わず眉を顰めた。
 思い起こすのは水の怪。だが、アレは完全に除霊した筈だ。他ならぬ茂夫の
強力な超能力で、跡形もなく。だが、俯きがちだった青年が面を上げた時には、
何事もなかったかのように表情を整えた。
「やっぱり事故物件だったんでしょうか」
「詳細は直接見てみない事にはまだ何とも言えませんが、事故物件というより
霊道になっている可能性があります」
「霊道」
 青年の顔が絶望に歪んだ。
「ああ、御心配には及びませんよ。何とかしますので。多少の準備もあります
ので……そうですね、十九時頃のお伺いで宜しいですか?」


 どうか宜しくお願いしますと何度も頭を下げながら一旦帰宅していった青年
を見送り、俺は誰もいなくなった相談所のソファへ元通りに腰を下ろした。
 足を組み、背もたれに軽く寄りかかり、腕を組む。
「で、どう思う」
 その言葉を待っていたかのように、淡く光が凝った――組んだ腕の中に。
〝ああ、居やがるな〟
 何の躊躇いもなく、寧ろ当然のように俺の腕に【腰をかけた】翡翠色の人魂。
寄りかかられている胸元には、不思議な感触があった。重さはほぼ感じない。
僅かな圧力と、温かくも冷たいような温度。何事にも動じないと自負している
心臓が、この時ばかりは僅かに震える。
 こんな稼業に身を窶している癖に、やはり悪霊の事は怖いのだろうか。更に
いうなら、エクボの事がこの後に及んでまだ信用できないのだろうか。
 思い出したように自問自答するが、未だに答は見出せない。
〝残り滓が幾つかへばりついてやがったんで、序でに除霊しといたぜ〟
 ソフトボールサイズの本体からは小さな手と足が出ている。俺の真似をした
のか同じように腕を組み、流石に足は組めなかったのかぶらぶらさせていた。
「……そうか。じゃあまたフルコースだな」
 依頼人を恐怖に陥れている霊障の方は頼りになる人魂に任せるとして、俺は
アフターサービスの方を担当する。怯懦に縮こまっている依頼人の心と身体を
リラックスさせる、という重大任務だ。
 今回の依頼人は気のせいでもなく何でもなく、本当に【視える】訳だから、
単純な肩凝りで片付ける訳にはいかない。
〝これ、外すなよ〟
 手順を考えていると、仰のき上目遣いに視線を合わせてきたエクボが、俺の
左腕に嵌められている翡翠色の念珠を軽く叩いた。
「解ってるよ」
〝もし本当に霊道が通っていたら何が出てくるか判らネェ。ヤバそうだったら
依頼人を連れて逃げろ〟
「ん〜、お客様はちゃんと護らないとな」
〝オ・マ・エ・も、だ〟
 この悪霊、相変わらず過保護だ。


 準備、とはいっても、同業他社のように大仰なあれこれを使う事もない――
寧ろ、霊力や超能力の力押しで何とかなっているという本末転倒なのか方向と
しては合っているのか――モブに力を込めて貰った博多の塩を懐に、恐がりな
依頼人を極力怯えさせないよう不可視状態を強めた上級悪霊を伴い、俺は約束
の十分前には呼鈴を押していた。
「やっぱり何かいますか?」
 怯える依頼人を背中に庇うような態勢になりながら、俺は鋭く視線を周囲に
投げた。無論、極普通の独り者の住まいしか見えていない。さして広くもない
室内の事、一渡り視線を巡らせれば全てが視界に入る。
 エクボからの合図は特にない。何かあればすかさず除霊してくれる筈なので、
今のところは何もいないらしい。
『やっぱり丑三つ時にならないと霊道は繋がらないのか』
 その間、怯えた依頼人を前にただ黙って時間を潰すのも憚られる。
「今のところは妖しい気配はないようです」
「そうですか」
 安心半分、不安半分の曖昧な表情のまま、青年は小さく息を吐いた。彼の方
でも、実際何かがあるとしたら深更であるだろう事は予測の範囲らしい。見鬼
なのだ、ある意味当然だろう。
「なのでまずは貴方に取り憑いた悪霊の方を何とかしましょう」
「やっぱりくっついてますか」
 俺の事を心底信用しているのか、見鬼の目に映っていない悪霊がいるという
事を疑いもしていない。
「睡眠不足もあるでしょうが、普段なら貴方の目に映るレベルの、かなり力の
強い悪霊がステルス状態で幾つか」
 寝台の上に俯せに横たわらせ、いつもの要領でマッサージを始める。
 取り敢えずある程度熟してリラックスさせ、時間を取ったところでエクボに
本物を何とかして貰おう。小一時間もあれば上級悪霊を吹聴して止まない奴の
事だ、原因究明には充分だろう。


 十分後、俺は戸惑った腕を一旦下ろす羽目になった。
 マッサージを続けながら言葉でも依頼人の不安を取り除こうとあれこれ話し
かけ続け、それに相槌を打ったり笑ったりしていた青年の反応がいきなりなく
なったのだ。
 施術を受けている間に寝落ちする依頼主は良くいる。だから、眠ってしまう
のは別にいい。問題はまるで失神したようにいきなり反応がなくなった事だ。
 何度か名前を呼び、軽く肩を揺すってみたが返事はなかった。目を閉じ唇を
半開きにしたまま、一見熟睡体勢にも見える。
「何だ……?」
 刻は十九時半。それまで聞こえていた周囲の生活音が、拭われたかのように
消え失せていた。
 気配が変わる。まるで、深山幽谷のような冷気と静寂が押し寄せてくる。
 急激に室温が下がっていき、晦冥の底から溢れ出すように真性の闇が全てを
塗り潰していく――触れられそうな程の威圧。
〝おい霊幻〟
 不可視状態を解き、エクボが俺の左横に顕現した。恐らく彼の目には状況が
はっきりと見えている筈だ。盛大に顰められた表情が全てを物語っている。
「エクボ、これって」
〝ああ、来るぞ〟
 古い木製の扉が、重厚な音を立てて開いていく音が虚ろに反響する。やはり
単なる霊障などではなく、霊道が通っていたらしい。
 何の力もない俺の採れる選択肢は一つだけだ。意識のない依頼人を腕に抱え
込み、念珠を正面に構える。バリア発生装置だそうなこの数珠、恐らくエクボ
の全力が籠められている。そこらの雑魚には砕けまい。
 室内だというのに、生温い風がゆるりと前髪に触れる。気のせいばかりとも
思えない、酷く腥い臭いも漂ってくる。
「随分とお早いお越しだな。丑三つ時はまだ先だが」
〝そりゃオマエ、見鬼どころじゃネェ旨みのある奴がいるからな〟
 言い果てもせず、エクボはその小さな腕を振った。何かが悲鳴を上げて一瞬
その姿が見えるも、すぐに消え失せる。
「……上級悪霊を取っ捕まえる気でいるとは、いくら何でも」
〝違ェよ!?〟
 周囲に強力な超能力者が揃っているだけについ忘れがちだが、こんな形でも
エクボは強い。それも相当に。孰れ全盛期の力を取り戻せば、一体どれだけに
なるのだろう。
「まさか俺の事か? 俺なんか引っ張り込んでどうしようってんだ」
〝……自覚が足りネェってのは恐ろしいモンだな〟
 過保護な悪霊はぶつくさ言いながら、またも降ってきた雑魚を殴り倒した。
 相変わらず何も見えないが、ナニかが翳した腕の前にぶつかってきた衝撃が
圧力となって感じられる。貰った護りの念珠がなければ、俺などいとも簡単に
弾き飛ばされてしまいそうな勢いだ。
 エクボが本格的に、霊道から溢れ出してきた見えない悪霊と戦い始めたのが
判る。消えたり現われたりと、霊体が忙しなく点滅していた。
 依頼人と自分の方は念珠のお蔭で当面は大丈夫そうだ。下手に動かない方が
いいと判断した俺は応援する事にした。
「頑張れエクボ」
〝簡単に、言ってくれるぜ! 零能者さんよ!〟
 大きく開いた口許から剝き出しにした牙を、ぼんやりと見える黒っぽい影の
ようなモノに突き立てる上級悪霊。
 古ぼけた布のように雲散霧消した結果を見届けもせず、エクボは次なる獲物
に立ち向かっていく。今回は人里離れた廃墟でも、取り壊し予定の廃ビルでも
ない。生活音が途絶えた事から何らかの霊的バリアが張られてはいるようだが、
余り大仰に立ち回って周囲のものを破壊してしまっては拙い。エクボの方でも
それを理解しているのか、攻撃には派手さがなかった。


 なるべく身体を縮め、呼吸すらもできるだけ小さく留め、俺は推移を計って
いた。エクボの攻撃の威力は変わらない。ないが――
〝こりゃ大元を何とかしない事にはキリがネェ。いかにも数が多過ぎだぜ〟
 どれだけ戦い続けたのか、さしもの悪霊も次の手に苦慮していた。
 予想通り、霊道を通って次から次へと雑魚から中級悪霊まで、もしかしたら
上級悪霊も溢れ落ちてきているらしい。これではいくら斃しても限りがない。
 俺は心中歯噛みする。もしモブのような、否、そこまでいかずとも少しでも
某かの能力があれば、今頃帰宅の途についていた筈だ。
 そう、問題なのは足手纏い――つまりは俺の事だ。
 何らかの手を打たねば早晩ジリ貧になる事は目に見えている。
 どうしたらいい、考えろ。
 ばちっと激しい光が飛び散り、また一体悪霊が消滅する。霊素の吸収も間に
合わないのか、只管散らし続けているエクボの目つきが常にない程厳しくなり、
呼吸する筈のないその息までが上がっている事に動揺する。
 もし、あいつが消滅したら俺は――俺は。
「エクボ、俺が囮になるから――」
〝却下だ!〟
 被せ気味に否定の言葉が投げられる。続け様にラップ音が響き、かなり強い
霊圧を放っていた悪霊が滅ぼされた。勢い良く振り向いたエクボの顔がまるで
余裕のない、将に悪霊そのものの表情で、却ってその事が俺を心苦しくさせる。
 そんなに必死になる程護ってくれる気になったのは何故だ。
「このままじゃ拙い。お前だって解ってるだろう」
〝だからって無能のオマエさんを囮にしたって意味がネェ〟
 まあそうだろう。
 無傷で全員が助かる事を考えるなら、という但し書きがつくが。
 だが、誰か一人を見切れば助かる道はある。
 霊道はいつでもどこにでも現われる可能性はあるが、ある程度は物理現実の
法則にも縛られている。その最たるものが、扉を閉められれば消滅するという
ものだ。
 あちらとこちらを繋ぐ扉を閉めてしまえば、そこからは二度と出入りする事
はできない。こちらの感覚では至極当然の事があちらにも通用するのはいっそ
奇妙だが、今はそれが有難い。
 一つ問題があるとすれば、扉は向こう側からしか閉められないという事だ。
だとすれば、無能の使い方は決まっている。
 いよいよ激しくなってきた戦いが、漏電した高圧電線並に激しいスパーク音
を轟かせてくる。俺はともかく、依頼人にまでとばっちりがいく事を考えると
悩んでいる暇はなかった。
「エクボ、あと頼む」
〝あっ、この莫迦――〟
 俺は左腕につけていた念珠を外すと依頼主の手に握らせ、見えないながらも
視界の片隅を揺蕩っていた朧な影に向けて突進した。
 その後の事は一瞬だったようにも、限りなく時間が引き延ばされたようにも
感じた。
 世界が回転する。全身にこの世の理とは相容れないモノが絡みつき、簡単に
持ち上げられた俺の身体は引き込まれていく――恐らくは霊道の向こう側へ。
 この世から離れていく内に周囲の状況が見えてくる。
 部屋一杯に広がった霊道の入口。深淵の向こうは無明の闇だ。
 振り返れば驚愕の表情で固まったエクボがいた。その背後には意識を失った
ままの依頼主にどうにかして取り憑こうとしてエクボの念珠に阻まれ、跡形も
なく破壊されていく悪霊共。
『任せたからな、エクボ』
 俺は視線を戻した。ただ連れ去られるだけなら意味がない。
 引き摺られながら必死に伸ばした手が扉にかかった。
 こいつらが俺に拘っている内に。
 引っ張られる勢いに手が外れそうになるが、許さない。
 重々しい音を立てて扉が閉まり始める。
『霊力がなくても摑めるもんだな』
 心は平らかだ。
 安堵したまま、最期にもう一度と俺は視線を上げた。
 視界の中に、翡翠色の悪霊はいなかった。
 代わりに見える範囲が全て翠碧色に染まる。
 熱くもあり冷たくもある、あの不思議な感触。


〝やらねぇよ〟
 左耳に怜悧な声が吹き込まれ、俺の視界はもう一度回転した。







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