Flaming June 1


 その奇妙なメールが霊幻の手許に届いたのは、照りつける陽射しがいい加減
うんざりしてくる、六月も終わりの事であった。
 それは当たり障りのない時候の挨拶から始まり、依頼主の置かれている状況
がいかに危機的なものであるのか、頼れるのは最早霊幻をおいて他にいない事
などが切々と訴えられていた。
「貴方だけが頼りなのです……か」
〝熱烈じゃネェか〟
 窓外に広がる雲一つない蒼天をのけ反るようにして見上げながら、メールの
最後の言葉を反芻する霊幻の傍らに、不意に妖しの気配が凝った。
 怠そうな霊幻が横目で気配の辺りを眺めれば、萎みかけた風船のような姿が
見える。
 外見は人魂そのものだ。翡翠色の掌サイズでふわふわ浮いている。かなりの
悪相だが、頬の赤い斑点が愛嬌と言えなくもなかった。
 そして、この人魂はれっきとした悪霊であった。とはいえ、今は力の殆どを
失っている。本当かどうか知れたものではないが、そう自己申告している。
 いつからこの世にいるのかは、誰も知らない。
 本人の弁によると悪霊としての力を強めるため、新興宗教の教祖に納まって
いたそうだ。たった一箇月で相当な規模に成長していた事を考えると、暴力や
金のにおいこそしないものの、危険過ぎる煽動力を持っているようだ。
 その野望も、たった一人の力によって脆くも潰えた。
 影山茂夫、渾名をモブという強大な力を持つ超能力者で霊幻の弟子でもある。
 彼にいとも容易く除霊されかけたあと、復活した悪霊は何故かちゃっかりと
居座り、友人の地位に納まっている。
 師匠としては悪霊と友人になるとは流石にどうかと思ったが、心優しく押し
に弱い弟子が済し崩しにその流れを受け入れるのは自明の理であった。
 孰れ悪霊の力が強まり、弟子の手に余るような事態が出来するならその去就
を考えもしようが、現状はテントウ虫扱いなので霊幻も鷹揚に構えている。
「何だよエクボ、暇なのか」
 随分と可愛らしい名前に思えるが、いくら弱体化しているとはいえ、悪霊の
成れの果てに対するものとしては適切でないにも程がある態度であった。
 だが、【零能者】などと揶揄される彼は改める様子もない。表面上は完全に
泰然自若と構え、気負ったところなどまるでない。そもそも弟子にすら負けて
いるのだ、況んや師匠に於いてをや、という態度である。
 何も知らぬ者がその様を見れば、流石は能力者よと誉めそやすであろうが、
普段から己の事を上級悪霊と称して憚らないエクボが、その有様に我慢すると
いう選択を選ぶ訳もなかった。
 悪霊の瞳がぎらりと光る。
〝誰が暇だ! お前が呼んだんだろーが!〟
 頭から湯気を出し、顔全体を口にして叫ぶ自称上級悪霊。まるで幼子のよう
にも見える。弟子によると初めに出会った頃はもう少し霊力を蓄えていたそう
だが――それでも彼に敵すべくようなものではなかったようだ。
 だが、それでも、だ。
 何の力もない一般人である霊幻にとって、霞程の力しかない霊魂であっても
対抗する術はない。たとえ弱体化しているとはいえ、もしこの悪霊がその気に
なれば何の特殊能力もない彼などひとたまりもない。
 そう、それでも霊幻は一見、飄々とした態度を崩さなかった。
 この悪霊が時々、冗談交じりに嘯いてくる相棒扱いしているからではない。
況してや信頼しているからでもない。寧ろその逆であった。
『こんな怪しい悪霊……いや、元々悪霊は怪しいものか……ともかく、そんな
危険物をその辺に野放しにしておく訳にはいかないからな』
 下手に敵愾心を燃やされては困る。気弱な弟子の心にこれ以上余計な負担は
与えたくはない。とはいえ、余りに馴れ合いが過ぎて油断したところで足許を
掬われるのも避けたいところであった。
 適当な距離感でつかず離れずが上策であろう。
〝おい聞いてるのか霊幻!〟
 思考の海に沈みかけていたところを耳許で焦れたように再度叫ばれ、霊幻は
面倒そうにのけ反ったままの姿勢を戻した。
「呼んだのはモブの方なんだが……」
 四の五の言う悪霊の顔面に掌を突きつけ、悪態の奔流を止める。
〝茂夫は補習を受けないといけないからな。時間が空きそうにないから俺様が
代わりに行ってくれと言われたぜ〟
「あー……なる程」
 弟子の成績は、お世辞にもいいとは言えなかった。遅れを少しでも取り戻す
ためにも、貴重な挽回のチャンスを棒に振らせる訳にもいくまい。
 今回の除霊には呼べない事に早々に納得した霊幻は、もう一度己の肩の辺り
を浮遊している風船を眺めた。
 そう、誰がどう見ても冴えない風采の風船である。
 悪霊なのだ、見かけもそうだが、何を企んでいるのか用心しておくに越した
事はない。
 霊幻は己の思惟に蓋をするように唇を引き結ぶと、席を立った。


〝で? 依頼人の指定場所ってなここかよ〟
 その後もすったもんだした挙げ句、霊幻は風船状態の悪霊を伴い、メールで
指示された場所へと赴いていた。
 万年金欠だそうなので、移動はタクシーではなくバスだ。三十分程揺られ、
停留場からまっすぐ百メートル程進んだところに目的地はあった。
 調味市の殆ど外れに位置しているその廃屋は、いかにもな雰囲気を漂わせて
いる。元々は瀟洒な洋館であったのだろう、昔日の面影を至るところに残した
佇まいは、一層不気味であった。
 折しも逢魔が時、妙に温い風が吹き抜けてゆく。
「やり手の祖父が一代で築き上げた財産も見事に親兄弟に使い尽くされ、見る
影もなし。放蕩を免れ最後に残ったのがこの洋館だそうだ」
〝望月の 欠けたる事も なしと思へば……か、切ないネェ〟
 悪霊が混ぜ返すのも無理はなかった。
 少し調べただけでも、当時の栄耀は新聞雑誌を賑わせていた。
「爺様がどうあれ依頼人はあくまで一般人、洋館なんざ維持に金はかかるし、
貸し出そうにも呪われるなどと噂が立った物件だ、首尾良く借り手が見つかる
筈もなし」
 二代目に代替わりした頃からだそうだ。
 ――この洋館には何かがいる、と。
〝そんだけあくどい事をやり尽くしてきたんだろ。ま、当然だな〟
 かつて蹴落とされた者の中に能力者でもいたのだろうか、絶望の深淵を覗き
込んだ末に変容したモノなのだろうか。どす黒い怨念が、能力がない筈の霊幻
にも見えるようであった。
「更地にするにしても、招かれざる客がいたままでは手がつけられないしな」
 霊幻は静かに歩を進めた。
〝それでお前さんにお鉢が回ってきたって訳か〟
「まぁな」
 無能力者が良くやる、悪霊は片頬を歪めた。決然と顔を上げて歩いているが、
実際のところ、この男の目には不可視のモノは何も見えてはいなかった。周囲
を飛び交う雑霊も、纏いつく思念も、何もかも。
 そんな男に白羽の矢が立ったのは、その手の事を生業にしている連中の中で
依頼料が一番安かったから、という身も蓋もない理由からだろうな、と悪霊は
思った。
 すたすた歩いていく霊幻に引き寄せられるように寄ってくる細かいモノを、
悪霊は一睨みで追い払った。
 正直、エクボとしてはこの男の生死には興味がなかった。将に、生きようが
死のうが勝手にしてくれというところだ。
 ただ、単純にそれだけで片付けられない事情もある。この場で霊幻を見殺し
にすれば、茂夫から報復という名の除霊がくる。これだけは避けねばならない。
『折角集めたなけなしの霊素を吹き飛ばされるのは勘弁だぜ』
 そこそこ集まってきたとはいえ、未だ全盛期の霊力には程遠い。これからも
彼らに取り憑いていれば、霊の方から寄ってくるだろう。労せずして霊素を手
に入れられる。
 零能の霊幻はともかくとして、茂夫の超能力は誘蛾灯のように力あるモノを
招き寄せるのだ。餌を与えられるのを大人しく待っている飼い犬のようで業腹
だが、脆弱な霊体のままで当てもなく放浪し、僅かばかりの霊素をかき集める
にも限度がある。
『きっちり護ってやるさ――霊力が戻るまでは、な。なぁ霊幻先生』
 不敵に笑ったその顔は、今度は誰が見ても悪霊の表情をしていた。


「さて、鬼が出るか蛇が出るか」
 不穏な考えを秘めた悪霊を従えた霊幻は、鋭い視線をかつては威容を誇った
であろう門扉へと投げた。
「どうだエクボ、何かいるか?」
〝……いるな〟
 風雨に曝され、手を入れる者もなかった門扉は既に鍵も腐食し、霊幻の手に
よって軋み音だけを最後の抵抗に、あっさりと開いた。
 彼は一つ鼻を鳴らすと無造作に門をくぐった。当時は綺麗に掃き清められて
いただろう車寄せや玄関口も今では見る影もなく、玉砂利は土塊に半ば埋もれ、
枯れかけた雑草が貧相に揺れている。
 そのまま何の妨害もなく、重厚な造りの玄関扉の前に着く。相変わらず霊幻
には何の気配も感じられなかったが、傍らの悪霊には館の奥に潜むモノの怨嗟
の声が幽かに聞こえてきていた。
 それが感じ取れない人間の方は、何の衒いもなく扉を押し開けた。
 屋根こそ落ちてはいないものの、どこか窓や壁の一部は崩落しているらしく、
吹き込んできた黴臭い風が佇む人間と浮かぶ悪霊の間をすり抜けていく。
 陰はより深く、僅かな先までしか見通せない。
〝おうおう、気付きやがったぞ〟
 その、あるかなしかの風の音と共に、今度は霊幻の耳にもはっきりと恨みの
声が聞こえてきた。のべつ軋り上げる霊達の声は重なり合い、引き伸ばされ、
囁いているようにも聞こえる。
「囁くモノ達の家……言い得て妙だな」
 か細く、余程注意していなければ聞こえない声が、何もいない筈の周囲から
ささめきかけてくる。
 近隣の【聞こえる】住人からいつしかそう呼び習わされるようになった呼称
は、このいわくつき物件の現状を的確に表現していた。
〝お、詐欺師さんよ、この声が聞こえるのかい〟
 感心したの半分、莫迦にしたのがもう半分の表情を浮かべ、悪霊がにやりと
嗤う。
「詐欺師じゃない、霊能力者だ。そこ間違えんなよ――で、この囁き声は本来
一般人には聞こえないのか」
〝ああ、歓迎してくれているようだぜ〟
 言い果てもせず、悪霊はやおらその短い手を伸ばした。
 霊幻の左肩、やや上の空間に無造作に突っ込まれる手。掌の辺りからどこか
ここではない次元に繋がっているのか、彼の目には何も映らない。
 だが、引き戻された手には何モノかが捕まっていた。
 必死に踠いているそれは、瞭らかにこの世のものとは思えなかった。
 金属質の悲鳴が一度聞こえるも、そのままエクボの口の中へと消える。嚥下
する音と共に気配は完全に消えた。
 それは悪霊にとっておやつにもならない程度の捕食相手にしか過ぎないが、
人間にとっては非常に厄介な相手であった。
「そんじゃ、ま、大掃除といきますか」
 結果的に助けられた恰好になった霊幻であったが、それについては何をいう
でもなく、徐ろに上着を脱ぎネクタイを緩め、腕捲りを始めた。
〝……お前は見ているだけだろうが〟
 そんな霊幻を実に胡乱そうな眼で眺めやり、悪霊は大仰に溜息を吐いた。
「滅相もない。上級悪霊様だけに働かせはしませんよ」
 先程の言い様への意趣返しの心算か、態とらしい呼称をつけた上に一礼まで
してみせる詐欺師。胡散臭い笑顔つきだ。
〝信じてもいない癖によ〟
 ぼそりと呟いた言葉は果たして聞こえなかったのか。
 どこからともなくお掃除セットを取り出し鼻歌交じりに床を磨き始める霊幻
に、悪霊はもう一度溜息を吐いた。


「流石、成り金が金に飽かせて建てさせただけの事はあるな」
 優美な弧を描く手摺りを拭きながら霊幻は呟いた。
 洋館はそこそこ傷んでいたが危惧した程ではなく、彼の手によって磨き上げ
られていく内に、在りし日の輝きを取り戻してくるようであった。その頭上で
先刻から姿が見えたり見えなくなったりしているのは、翡翠色の悪霊である。
久し振りの人間を手頃な餌と認識している雑霊を、片っ端から喰らっている。
 器用な悪霊は雑魚を貪りながらも、脆弱な人間の周囲にさり気なくバリアを
張ってやっているのだが、勿論零能の霊幻には見えていない。
「何かお前を見てると目がちかちかしてくるな」
〝暢気な事を言ってるんじゃネェよ〟
 最初は気になって視線をやっていた霊幻も、あんまり見ていると目が回って
くる事に気付いてからは、極力視界から排除している。
〝俺様に、こんな、不味い、雑魚を喰わせておいてよ、何もしない、どころか
見ても、ないとは、いい御身分だぜ、全く〟
 ぶつくさ文句を言う間にも襲ってくる霊を鷲摑みにし、躍り食いしている。
「へぇへぇ、感謝してますよ」
〝心がこもってネェなあ〟
「あとでタコ焼きおごってやるから」
〝霊体の俺様に食えるか!〟
 こういうと双方揃って否定をするだろうが、結構息の合っている二人である。
「さて、次は階段室……おっとその前に用具入れも確認しておかねば――」
 その時、軽快に動いていた霊幻の口と手が凍った。
〝霊幻?〟
 雑魚霊の気配はない。上級悪霊たる己にも気付けなかったモノでもいたのか。
フリーズしたままの人間の頭越しに飛び出し、先を覗き込むエクボ。
 やはり何もいない。
〝おいどうした、何かいたのか?〟
 悪霊は振り返り、物凄い冷や汗を流している霊幻の顔を見詰めた。その目は
恐怖に見開かれ、虹彩の複雑なパターンまで顕わになっている。言葉を出す事
も息すらできないのか、彼は震える指先を闇の一角へ突きつけた。
〝って何だよ、ゴ――〟
「その名を言うなあ! ジェット噴射!」
〝あっ、俺様にかけんなよ!〟
 間一髪、不可視モードに遷移したエクボを華麗に突き抜け、強力な殺虫剤が
噴射された。素晴らしい狙いで哀れな害虫を昇天させる。この男にとっては、
悪霊よりも余程、黒光りする害虫の方が怖いらしい。
 その後、台所やの中でも奴らと遭遇してしまい、最終的には面倒になった
エクボが怯えて使い物にならない霊幻を下がらせ、まとめて退治した。
〝やれやれだぜ〟
 悪霊は更なる溜息を吐いた。


 こうして一階は何事もなく終わった――霊障的には。
 霊幻の掃除の腕は本日も冴え渡り、その邪魔をしてくる囁くモノ達の始末は
全てエクボがつけた。完璧であった。
「さて、次は上の階だな」
 一階で引き起こした害虫との攻防は、彼の中ではなかった事になったらしい、
また鼻歌が戻ってきていた。やけに生き生きしながら天井の煤払いをし、電球
を磨き、バケツの水を取り替える。脆くなった階段を間違っても踏み抜かない
よう用心しながら、霊幻は二階部分へ移動した。
〝面倒臭ぇな〟
 ぶつぶつ言いながらも、結局そんな霊幻の後ろを大人しく憑いていく悪霊で
ある。文句を言いながらも次々に現われる雑魚は律儀に捕食していた。洋館内
に巣くう低級霊は、ほぼ全滅しただろう。
 霊幻の方も薄汚れた窓や廊下を手慣れた風情で拭き上げ、壊れたところには
応急修理を施していく。日曜大工レベルでみればかなりのものだ。
 そうして辿り着いたのは、他とは違った意匠を凝らした飴色の扉であった。
 鍵はかかっておらず、簡単に開いた先には壁一面に造りつけられた書架と、
ぎっしり詰まった年代物の本。
「ふむ、書斎か。掃除のし甲斐があるな!」
 霊幻の両目がきらりと光るのと同時、エクボの両眼も赤光を放った。
〝どいてろ霊幻〟
 状況が解っていない彼の頭上をひょいと飛び越え、エクボは細い腕を精一杯
伸ばして後方の零能力者を庇った。
 瞬間、赤黒く燃え盛る負の焔が噴きつけられる。まともに食らえば無能力の
人間など瞬く間に魂から爛れ、消滅してしまう程のものだ。
「い、いきなり歓迎の炎とは礼儀がなってないな」
 引き攣った笑顔ながらも即座に言い返す霊幻の胆力に――決して口に出す事
はないだろうが――エクボは素直に感心した。
 無能力者が蛮勇を奮っている訳ではない。会話を接ぎ穂として相手の弱点を
探ろうという腹だろう。ここで相手が乗ってくれば良し、そうでなければ別の
策を考えるのだろう。
 霊幻の指差す先、真っ黒な闇が凝集した。顔も、手足の別も判然としない。
〝許さぬ……許さぬ……〟
 もう個別の意識さえ定かではないその恨みの念は、先刻から同じ言葉をくり
返している。
「あ、これ会話できない奴」
 詐欺師の目論見は敢えなく潰えた。
〝じゃあ俺様の出番だな〟
 人間共にいいように使われるようで、最初はこの除霊に乗り気ではなかった
エクボであったが、なかなかどうして、骨のある雑魚が相手となれば話は別だ。
悪霊は更に霊圧を高めた。
 は小さくても上級悪霊、在りし日の霊力には未だ及ばないが、そこいらの
雑魚霊を黙らせるには充分である。
 ゆらゆらと蠢く醜怪な念がふと動きを止めた。
〝くる――〟
 恨みの思念体が不意に泥水のように崩れた。
〝うおっ〟
 部屋中が真っ黒な水の中に沈む。咄嗟にバリアを張ったエクボであったが、
真後ろにいた霊幻の気配が追えない。
 辺りはねっとりとした重ささえ感じる空気で、元々薄暗かった室内は完全に
闇に沈んだ。上下左右の別さえ曖昧になる。飲まれたのがただの人間であれば
何が起こったのかも解らず、そのまま呪いに捕り込まれただろう。
〝糞面倒な真似をしてくれるじゃネェか!〟
 だが、ここにいるのは人間ではなく悪霊であった。
 大きく口を開いたエクボは咆吼と共に剃刀のような光刃を吐き出し、辺りを
切り裂いた。
 フル霊力の時のようにはいかなかったが、それでも呪いを破壊するには充分
であった。墨の中にいたようだった周囲に色と光が戻る。
〝霊幻、どこだ!〟
 振り返った先にはいない。
 焦って周囲を見回せば、書架だけで埋め尽くされていたと見えていた左奥の
壁に隣室へ続く扉が見える。
〝ちっ、雑魚とはいえ侮ったか〟
 あの一瞬で、たとえ零能とはいえ、人一人を攫っていくとは。
 このままだと除霊コースまっしぐらだ。
『おい、冗談じゃネェぞ』
 悪霊は兇暴な笑みを刻むと小さな身体を銃弾のように弾き飛ばし、奧に続く
扉を突き破った。


〝霊幻、無事か!〟
 豪快な破壊音と扉の残骸とを諸共に飛び込む。
 隣の部屋には、真ん中に椅子がぽつんと一つ置いてあるだけであった。机は
おろか、絨毯すらない。背もたれをこちらに向けてあるが、その上から僅かに
飛び出しているのは詐欺師の金茶色の髪だ。
 窓もなく、斜めになった天井にある明かり取りからは消え残った残照が細く
射し込んできていた。
『何だここは』
 最初から空き部屋であったのか。それとも、この念の集合体が長年の消せぬ
恨みと渇望から、調度を食い尽くしたのか。
〝霊幻……?〟
 悪霊は用心深くそれに近付いていった。
 果たして霊幻はそこに座っていた。意識があるのかないのか、虚ろな視線を
投げたまま、ぐったりと全身を弛緩させている。薄く開いた口許からは真っ黒
な恨みの念が覗いている。折しも最後の欠片を醜悪に蠢かせながら潜り込ませ
ようとしているところだ。
 エクボは躊躇わなかった。一瞬の遅滞も見せず霊幻の口の中に腕を突っ込み、
力任せに念を引き摺り出す。片手では足りず、両手を使って更に引っ張った。
 とても一人の人間の中に収まっていたとは思えない程長大な闇が、霊幻の中
から出てきた。途中で千切れ、一部は雲散霧消し、一部は未練がましく温かな
人の身体へ戻ろうとする。
〝させるかよ〟
 また光刃を浴びせる。至近からの会心の攻撃だが、やはり力が足りない。
 一度では追い散らせず、二度、三度と放つ。
『俺様、何だってこんなに必死になっているんだ?』
 そんな疑問がふと脳裡を過ったが、呪いの方も黙ってはいない。己の邪魔を
する小さな悪霊をどうにかして振り払おうと、再三攻撃をくり出してくる。
 防禦に失敗して、身体の一部が削がれた。
『何でだろうな』
 悪霊は今の有様に苦笑した。
 茂夫の除霊が怖いからといって、ここまでする事はない筈だった。今までの
自分であればとっくに見捨てていた。
 背後からブーメランのように戻ってきた怒りの念を、全身を使って止める。
避ければ霊幻にも当たると咄嗟に判断しての事だったが、そのせいで更に霊体
が崩れた。
〝まあ何でもいい。いい加減に貴様と遊ぶのも飽きた〟
 漸く霊幻の身体の中から引き摺り出し終えた呪いの塊を、力任せに床へ叩き
つける。上級悪霊の現在可能な全霊力を込めての叩きつけは、それへかなりの
痛打を与えたらしい。
 泥の塊を投げつけたような粘っこい音が立ち、同時にそれの苦鳴らしきもの
が耳障りに乱反射した。見るみる内に輪郭が崩れていき、灰が吹き散らされる
ようにをなくしていく。
 その隙に、翡翠色の悪霊は霊体を非実体化させた。
 瞬く間に悪霊の周囲は陽炎と化す。
 闇が耀いていた。
 見えぬ筈のモノが見え、ある筈のものがなく、全ては無彩色の濃淡になる。
 エクボはややふらふらしながらも振り返り、未だ意識のない霊幻を視た。
 呪いの力のおおかたは削った。だが本体がまだ脆弱な肉体の中に隠れている。
必死になって奧へ、奥へと逃げようとしているのが、エクボの紅く輝いている
眼にははっきりと捉えられていた。
〝まだいやがるか〟
 不可視状態へ遷移すれば、触れられるものはなくなる――霊以外は。全てが
幻のような世界の中、悪霊は先程までの狂瀾が嘘のように、そっと身動ぎ一つ
せぬ霊幻の首に手を沿わせた。
 目を眇め、注意深く咽喉へ掌を差し込んでいく。
 顎のすぐ下、首から直接突っ込んだ悪霊の枯れ枝のような腕は、しかし現実
で実際に行なえば、流血の大惨事を引き起こすしかない状況だ。だが、不可視
状態を保った今は何の抵抗もなく、ひとしずくの血も流す事はない。
 内部に潜り込もうとしていた恨みの想念が、上級悪霊たるエクボの力に競り
合おうとして押し負け、小さく小さく丸められていく。
「……っ」
 微かな呻きと共に、霊幻の瞳に力が戻った。
〝霊幻、まだ動くなよ〟
「……っ、……!?」
 非接触状態だからこそ可能な、物質をすり抜けその内側に触れる行為。その
境界線はエクボにとって意味を持たない。
 とはいえ、意識が戻ったばかりの霊幻にとっては、将に魂消る程の衝撃だ。
〝お前、さっきの念の集合体に取り憑かれかけてるんだよ〟
「――!!」
 疑問符と、僅かばかりの恐怖で埋め尽くされたかのような霊幻の顔を見上げ、
悪霊は――笑った。
 いつもに構え、どんな無理難題が来ても(取り敢えず、例の害虫は除く)
顔色一つ変える事などないと思っていた、あの霊幻が、である。
『こいつでもやっぱり怖いものは怖いか』
 エクボはこんな状況にも拘わらず、何だか愉快な気分になってきた。
〝ああ、心配は要らない。これで最後だ〟
 いっそ穏やかと称してもいいようなその声音に、霊幻は驚きに目を見開いた。
控えめに言っても、そんな優しい発言を聞いたのは初めてだ。咽喉奧が途端に
詰まったように苦しくなる。
 何も知らぬ悪霊はゆっくりと腕を引き抜いた。その小さな手には、黒真珠の
ような玉が握られている。
〝こいつが核だな〟
 小振りでも長年の恨み辛みを凝集させた呪いだ、禍々しい耀きを放っている
それを、一応請け負い主である霊幻の目の前へ掲げてやるエクボ。やはり変な
ところで律儀な悪霊であった。
〝これで、終了だ〟
 エクボは無造作にそれを口に抛り込んだ――飴玉でも舐めるように。


 依頼人へ無事に除霊完了のメールを送信し終えた霊幻は、相談所のソファに
斜めに座り込んだ。時刻は既に深更を大幅に回っていたため、室内灯は点けず
卓上灯だけが薄らと周囲を照らし出すに任せる。
 暫くは何をするでもなくただぼんやりしていた霊幻は、己が無意識に首筋を
擦っている事に気がつき、小さく溜息を吐いた。
 意識が戻ったあの時、霊幻は完全に悪霊に乗っ取られる未来をしか想像して
いなかった。
 自分が乗っ取られれば、弟子を止められる者がいなくなる。
 それどころか、偽物の師匠の言とも知らずに心も身体もいいように操られ、
またぞろ怪しい宗教団体の御神体に祭り上げられるだろう、悪霊の思惑通りに。
 その怖気を震う恐怖。
 件の悪霊は既にこの場にはいない。思わぬ霊素の補給になったとほくほく顔
でモブの家に戻っていった。
 その様子は、いつもの除霊の風景と何ら変わるところはなかった。
『あいつ、何で笑ったんだ……』
 霊幻の恐怖を視ておかしかったのか。
 それとも、いつか必ず憑依してやるという自負の表われだったのか。
 結局、霊幻の恐怖は単なる杞憂に過ぎず、真に取り憑こうとしていた呪いを
引き剥がしてくれただけに終わった。
『良かったじゃないか。俺一人で出かけていたら今頃は……』
 取り憑かれかけた時の事を思い出し、自称稀代の霊能者は身震いした。
『とにかく何事もなかった。終わりよければ、だ』
 何をするにしても考えるにしても、今日は疲れ過ぎていた。
 さっさと帰って熱い風呂にでも入り、とっとと寝てしまおう。
 霊幻は重い腰を上げ、ポケットから相談所の鍵を取り出した――







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