Flaming June 2


〝霊幻……霊幻……〟
 耳許を掠める声がする。消え入りそうに微かに、しかし先刻からずっと己の
名を呼ばう声に、霊幻はうっすらと目を開けた。
 見慣れた天井が仄見える。窓越しに街灯の朧な光が差し込み、室内の様子も
ぼんやり浮かんでいた。
〝霊幻――〟
【何か】が眼前に存在していた。
 常人の視界に捉える事のできない、何か。
 見えないだけで、それは確かにそこに存在していた。
 視界の中を微かな揺らぎが近寄ってくる。それはひたりと首許で停止した。
〝漸く機は熟した〟
 喉仏に何かが触れる。小さくて、冷たい。
 霊幻はゆっくりと瞬きした。とんでもない事態が進行している気もするが、
ぼんやりした頭では良く理解できなかった。
〝これからは俺様が有意義に使ってやるよ〟
 ――お前の、その身体を。
【何か】が這入ってくる悍しい感覚。


「……っ!!」
 自分の叫び声で目が醒めた霊幻は、荒い呼吸を沈めつつ、周囲を見回した。
 燦々とした朝の光がいつもと同じ表情で室内を照らしている。
 どこにも変わったところはない。
 己の喘鳴と異様な程の寝汗を除けば、普段通りだ。
「月並みな感想だが、夢だったか」
 霊幻は滴り落ちる汗を拭い、大仰に息を吐いた。
 このところの霊幻は、数日に一度程の頻度だが悪夢を見るようになっていた。
 場面は色々だが、上級悪霊が何やかやと妄言を吐き、己の身体を乗っ取ろう
とする夢だ。
『ま、完全な悪夢と言い切れないのもな……』
 先日の除霊で、霊幻は実際に悪霊へ取り憑かれそうになっている。その相手
はエクボでこそなかったが、半ば以上同化しかけていた恨みの念を引き剥がす
のに、あの細腕を首から突っ込まれてもいた。
『そういや、礼も言っていなかった……』
 取り憑かれると思ったのは勘違いで、あの場は見事に片付けてくれたという
のにだ。さしもの霊幻も、恐慌を来たした状態で滑らかに言葉が出る筈もなく。
悪霊の方も何らかの対価を要求する事はなく。結局有耶無耶のままだった。
 あれからも、エクボには何度か除霊の手伝いを頼んでいた。だが、あれ程の
強大な念や悪霊に遭遇する事は絶えてなく、何となく礼も言いそびれたまま。
 時間が経てば経つ程、改めて言い難くなるものだ。
 シャワーを浴び歯を磨きと、朝の一連の作業を熟し、霊幻は職場へ移動した。


「そうなんですよ霊幻センセ」
 喋りはオネエだが、プロレスラー並みの体格を誇る依頼主がハンカチを片手
に、涙ながらに訴える。
「それはお辛いでしょう。間違いなく悪霊のせいですね」
「や、やっぱり!」
「御安心下さい、お客様。その手の悪霊の事なら私、良く知っています。この
霊幻新隆にお任せを。すぐに祓えますよ」
 Cコースを選んだ顧客へ呪術クラッシュを入念に施した霊幻は、感謝する事
しきりの相手を笑顔で見送ると椅子に座り込んだ。
 最近、やたらと疲れ易い気がする。
 確かに筋骨隆々とした相手に呪術クラッシュを施すのには体力を使ったが、
これ程まで疲労困憊するような事だろうか。
『俺も年かな』
 首から肩へかけて軽くストレッチを施す。少し凝っているかも知れない。
 霊幻は溜息を吐きながら次の予約を確認しようとスリープにしておいたPCを
起こした。
 そこから先の記憶がない。


〝霊幻……霊幻……〟
 耳許であの【声】がする。
 ああ、まただ、またあの悪夢が始まるのだ。
〝おい霊幻!〟
 呼ぶというより叫んでいるような声音に、霊幻は漸く重たい目蓋を開いた。
 眼前には翡翠色の人魂が浮いていた。光の加減か寝惚けているせいなのか、
その表情が不安と僅かながらも安堵に縁取られているように見えた。
「ん……何だエクボ」
 己が眠ったという記憶はないが、いつの間にか机に俯せていたという事は、
余りにも疲れ過ぎて覚えていないだけなのだろう。そう独り決めした霊幻は、
まだ重怠い身体を無理矢理引き起こした。
〝おいおい御挨拶だなァ。仕事中に居眠りしているどこかの詐欺師を起こして
やったんじゃネェか〟
「詐欺師言うな」
〝じゃあ零能者か〟
「喧しいわ」
 意味のない言い合いをふわふわ浮かぶ悪霊と交わしながら、霊幻は腕時計を
見た。最後の客を送り出してから小一時間程過ぎていた。相変わらず妙な疲労
は取れない。
 首を捻りながらも霊幻は給湯室へ立つと、熱い焙茶を淹れてきた。
〝何か最近調子悪そうだな、オマエ〟
「そうか、気のせいだろ」
 お約束通りに一口目を火傷している霊幻を眺めやりつつ、それは嘘だろうな、
と悪霊は心の裡で呟いた。
 相談所に閑古鳥が鳴いているのはいつもの事だ、だから暇なのを幸い昼寝を
決め込んでいる、それもいい。
 問題なのは、彼がやけに意識を失っているのが多い事だ。
 今もそうだった。あれは寝ているなどという生易しいものではなかった。
 茂夫に頼まれ一足先に相談所へ来てみれば、机に突っ伏し昼寝の態勢にしか
見えない男がいた。
〝おい詐欺師、俺様が来てやったぞ。起きろ〟
 窓を突き抜けいつものように軽口を叩いたが、反応がない。
〝いつまで寝てるんだ〟
 揶揄いを含んだ笑みを浮かべたエクボは、無造作に霊幻の顔を覗き込んだ。
その表情が見るみる内に険しいものに変わる。
『こいつ、まーたなんかくっつけてやがるな』
 うっすらと黒い蟠りが目を閉じている霊幻の顔を覆っている。
 悪霊は問答無用で腕を伸ばし、黒い霧のようなそれを引き毟ると咀嚼した。
 もう一度、今度は良く目を凝らして意識のない男の全身を視る。おおかた、
除霊依頼の顧客からうっかり本物を貰ったのに違いない。
 今度こそ何も残っていないのを確認し、エクボは目を醒まさない霊幻の頭を
小さな手で揺さぶった。
〝霊幻、起きろよ。鍵開けっ放しで不用心だろう〟
 軽く揺れた前髪が目許に振りかかる。微かに溜息が洩れたところをみると、
半覚醒状態まではきているようだ。しかし、一向に眼が開かない。何度名前を
呼ぼうがいくら揺さぶろうが起きないので、最後には頭の上に乗ってジャンプ
してみたりした。
〝起きろこの野郎、狸寝入りしてんな!〟
 漸く霊幻が意識を取り戻したのは、悪霊が十分近く悪戦苦闘したあとだった。
『これは寝穢いとかいうレベルじゃネェよな……呪われてんのか?』
 小腹が空いたのか今度は煎餅をばりぼり囓る霊幻を、頭上から呆れたように
眺めながら悪霊は独りごちた。
 意識のある状態で霊幻を視ても、特に変わった様子は見られない。ちょっと
眠そうな目でダレているのもいつもの事だ。これで、いざ除霊となると生気を
取り戻すのだから生者の感覚というのも大概だ。
『俺様の目にも捉えられない程上級の呪いなのか』
 そうは思えなかった。
 何度見直してみても、起きている今は何の異常も見つけられない。
「何だよ」
 まじまじと見詰めていたせいか、流石に気になったらしい霊幻の訝かし気な
視線がエクボに向けられた。心配している、などと真っ正直に言ったとしても
悪霊が何を言うと失笑されるだけだろう。
〝別に。相変わらず喰い方汚ェな〟
 悪霊は先刻片付けた黒い怨念の事は敢えて言わず、適当に誤魔化した。
〝そんな事より、予約客の確認はいいのか〟
「もう見た。今日は飛び込みが来ない限り終わりだな」
〝相変わらず暇過ぎんな。良く潰れないもんだ〟
「煩ェな」
 などと、いつもの応酬を交わしている内に茂夫がやってきた。
「師匠、遅くなりました」
 傍目には全くの無表情としか見えないが、つき合いの長い霊幻とエクボの目
にはちょっと焦った表情なのが判る。
「おー、モブか。補習の方はもういいのか」
「はい、宿題がいっぱい出たのでここでやってもいいですか」
「いいぞ、お茶もあるぞ」
 霊幻が給湯室へ消えたのを潮に、エクボは少年の側へ近寄った。自分の目で
見ても何の異常も確認できないが、絶大な能力を誇る茂夫になら、もしかして
何か見えるかも知れないと踏んでの事だった。
〝なあ茂夫〟
「何エクボ」
 鞄から教科書とノートを取り出しながら、少年は平坦な声で応えを返した。
〝霊幻の事なんだがよ――〟
「師匠? 何かあったの?」
 ここで悪霊ははたと困惑した。
 一体何と言って説明したものか。
 霊幻の奴、調子が悪そうだが茂夫はどう思う――これでは普通に体調を心配
しているだけのようだ。
 俺にはあいつが呪われているように見えるが、お前はどう思う――これでは
少年に要らぬ不安と疑いを抱かせてしまいそうだ。
『俺様が呪っていると思われてもな』
 悪霊があれこれ思案に暮れている間、茂夫の方は急かすでもなく、傍目には
ぼうとした視線をこちらへ投げているだけのように見えた。しかし、そこそこ
つき合いの長いエクボには、茂夫の目に危険な光が点り出しているのが見えた。
「何だ、二人して悪巧みか」
 そこへタイミングがいいのか悪いのか、当人が戻ってきてしまう。
 悪霊と少年は互いに視線を交わし、この話題は後程、という事で諒解した。


 この日は予想通り来客はなく、茂夫とエクボは何もしないままにお役御免と
なった。
 霊幻からお土産の煎餅を貰い、二人連れ立って茂夫の家へ戻る。
「さあエクボ、話して貰うよ」
 夕食をしたため風呂を使い歯を磨いた茂夫は、早々に自室へ引き取った。
 少年は椅子に腰掛け、もうひと方は空中に浮かんだまま、微妙に深刻な顔を
突き合わせる。
〝ん〜、何というか……実際そんな構える事でもないかも知れネェんだが〟
 結局エクボはあれこれ策を弄するの愚を悟り、自分が見たそのままを茂夫に
伝える事にした。
「それ、いつ頃からなの」
〝うーむ、いつと言われてもなぁ……霊幻の野郎も、逢えばいつも寝ていると
いう訳でもないし〟
 取り敢えず気付いたのは十日程前からだったと伝えれば、茂夫も難しい顔を
して黙り込んだ。
「何だろう。弱い霊障のような気もするけれど」
 まさかエクボが、というような視線を寄越され、悪霊は大慌てで否定した。
〝いやいや、俺様じゃネェからな!〟
 除霊は勘弁してくれよと言えば、少年は微かに笑った。
 非常に解り難かったが、今のは茂夫なりの冗談だったらしい。
「うん、エクボの言い分は解ったよ。僕の方でも師匠の周囲に怪しい気配が
ないか、気をつけてみる」







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