Flaming June 3


 そのまま、何事もなく一週間が過ぎた。
 一週間前に来た客がまた身体の不調を訴え予約を入れてきたのが昨日の事で、
もうすぐその予約時間という頃比。
「うーむ」
 霊幻が難しい顔をして左手首を捻っている。
〝どうかしたのか〟
 茂夫はカウンターで宿題に集中していて、霊幻の様子に気付いてはいない。
邪魔をしないよう天井附近を暇そうに漂っていたエクボはいち早くその様子を
見咎め、すいとその肩に降り立った。
「今朝から腕の調子がおかしいんだ」
 身体の下敷きにでもしたかな、などと暢気な顔をしながら手首をぶらぶらと
振る零能者に、悪霊は呆れた顔をした。
 肩に留まったまま、霊幻と共に手首を見下ろす。霊力が零の彼には見えない
だろうが、悪霊であるエクボにはそれがはっきりと視えた。
〝相変わらず弱っちいのに好かれ易いのな〟
 彼に自己申告されるまで気付かなかった程のレベルだったが、確かに小物が
纏いついている。
「何だよ、何かいるのか?」
〝ああ……細かいのが、な〟
 言い果てもせず肘辺りまで滑り降りた悪霊は、将にブレスレット宜しく腕に
巻きついている雑魚霊を引き剥がすと、徐ろに囓り始めた。
 珍しく文句も言わず率先して下級霊を除霊したのが奇異に思えたのか、霊幻
は驚いたような顔を向けてきた。
『弱過ぎて話にもならんくらいだが、呪いの一種だな……』
 こんな稼業に身を窶しているのだ、恨みの一つや二つ買うだろう。
『それにしても、いくら何でも覚えのない呪いが多過ぎやしネェか』
 思案に暮れながらもエクボが無心に口を動かしていると、更に霊幻の視線が
胡乱なものになった。
「お前、最近何か隠してないか」
〝俺様が? いんや、なんにも〟
「棒読みがいかにも態とらしい」
〝マジでマジで〟
「……本当かよ」
〝ほんとほんと〟
 茂夫との相談のあと、何があっても対処できるよう霊素の補充機会があれば
いつも以上に積極的に摂取しているくらいでエクボに他意はない。
 寧ろ迫る危機を放置しておいて何かあった場合、非情な確率で割を食うのは
悪霊の方だ。
〝全く……何だって俺様がこんな目に〟
 文句を言うと、床叩きつけの刑を洩れなく執行されるので口には出さないが。
「師匠、お客さんがいらっしゃいましたよ」
「おっと、お待たせ致しました」
 そうこうする内に予約の客が到着したらしい、傍目には胡散臭い笑みを満面
に湛えた霊幻は客人を迎えた。
「ああ霊幻センセ! この間折角除霊して頂いたのに、やっぱりまた肩が重く
なっちゃって」
 例の超ミニのワンピースに、ごつい身体を無理矢理に押し込んだような風体
の人物だ。先週もきたという客人に相違ない。
 だが、気配がおかしい。これは――
 同時に茂夫も気がついたようであった。
「師匠、下がって」
 どんな人物風体でも変わらず丁寧にエスコートする霊幻を強引に押し退け、
茂夫が両手を前に翳した。
「お、おいモブ、どうし――」
 いつものようにソファに案内しかけていたのを邪魔され、蹈鞴を踏む零能者
の横をすかさず悪霊も擦り抜けた。
 次の瞬間、ただの依頼者だと思っていた奴の口から真っ黒な霧のようなもの
が飛び出した。
 激しくスパークする音が響き渡り、二人がかりで張ったバリアの表面に黒色
に耀く悍しいものが未練がまし気に纏わりついた。
「師匠、誰に呪われているんですか」
「呪い? 特に心当たりはないなァ」
 何も見えていない霊幻が暢気に返す。
 無表情ながらモブの顔に焦りが出ている。霊幻にとっては何が何やらという
状況だが、先刻からずっと無言のエクボも冷汗が伝っているところを察するに、
相当に拙い状況のようであるらしい。
〝ちっ、詐欺師様よォ……どうやらあの洋館から、随分と厄介なモノを連れて
きちまったようだぜ〟
「あいつか〜……って、お前ぇ! 片付けたって言っただろう!?」
〝確かに片付けたんだがな〟
 光すら吸収しているかのような漆黒の呪いは生憎霊幻の目には全く、欠片も
映っていない。必死になっている二人の表情から良くない事態である事は判る
が、見えないモノには対処のしようがない。
「じゃ何だよこれは!」
 エクボはバリアを維持しつつ、醜怪に蠢く霧をじっと睨みつけた。前回対峙
した呪いの念に似てはいるが、似て非なるモノだ。いや――
〝寧ろこっちの方が本家本元だったのかもな〟
 エクボは少年と目配せすると一気に霊力を叩きつけた。
「まだ消えてないよ」
 漸く三分の一程を散らす事に成功したが、呪いの方は諦める気はないらしい。
残った部分を収斂させると、バリアを破壊し始めた。
 このままではまたぞろ取り憑かれてしまいそうだ、そう判断した悪霊は霊幻
にもっと下がるよう指示を出しかけ、そのまま固まった。
 彼は無謀にも――いや、寧ろ見えないからこその対応なのか――倒れている
依頼主の傍へ片膝を突き、抱き起こしたところだった。
〝莫迦、何やって――!!〟
 啞然としたエクボはその手を制止しようとしたが時既に遅かった。
「師匠!」
 二人がかりで何とか止めていた呪いの黒霧が、不意に消え失せる。不安定な
均衡の上に支えられていた力が一気に雪崩を打って辺りに広がり、きっちりと
固定していないものを吹き飛ばした。
 焦った悪霊は、げほごほと噎せている青年と少年の回りを飛び回って呪いの
行方を捜したが、既にそれは拭われたように存在をなくしていた。
「お、溶かしたのか?」
 どこまでも暢気な霊幻の言葉を耳にしながら、悪霊と少年は無言で強張った
顔を見合わせた。


「はあ!?」
 ――消えた。片付いてはいない。
 端的に表現した悪霊に、霊幻は素っ頓狂な声を上げた。
「じゃあ見失ったと」
〝……もっと悪い〟
 エクボは苦虫を噛み潰した表情を隠しもせずに返した。
「依頼人さんの身体にはもういないみたいです」
 茂夫もその言葉に同意するように続ける。
「えーと、つまり?」
〝逃げたんじゃなければ憑依先をお前に変えた、としか思えネェ〟
 そして、状況的にいってもとても逃げたようには見えなかった。
 では誰に憑依するのか。
 少年は自他共に認める強力な超能力者だ、憑依するにはその能力に打ち勝つ
だけの霊力が要求される。悪霊であるエクボも然り。
 翻って霊幻はといえば全くの一般人。零能力な分、単なる一般人に憑依する
より簡単な分、質が悪いかも知れない。
 答は自明の理であった。
「でも見えないんです。師匠の中には、何も」
 呪いの念も、悪霊の類いも。
「じゃあやっぱり逃げた――」
〝狙いは最初からお前だった〟
 己が如何に危険な状況なのか、果たして真に理解しているのかいないのか、
頬を引っ搔きながらのほほんと言いかける詐欺師を遮り、硬い表情をした悪霊
はきっぱりと断定した。
「何でそう言い切れる」
〝オマエ、ここ最近ずっと調子が悪かったろう〟
 ソファに座り込んでいる霊幻の眼前にずいっと近寄ったエクボは、その眼の中
を覗き込んだ。
〝はっきりしないが、オマエの中に何らかの印が見える……ような気がする〟
「何らかの印って……つぅか気がするって何だよ、怖ぇよ」
 寒気を感じたかのように霊幻は己の腕を擦った。
 夏の陽射しの降り注ぐ室内は寧ろ暑く、強大な能力を有する二人にこうして
両脇を固められている状態で安全が脅かされるなど俄に信じたくはなかったが、
悪霊の眼は笑っていない。
「この間、エクボとも話したんですけれど……」
 茂夫も無表情なりに心配している声音で続けた。
「師匠、しょっちゅう意識をなくしていますよね」
「そりゃ気のせいだろう?」
 霊幻は軽く受け流そうとしたが、弟子の方はまるで聞こえなかったかのよう
に続けた。
「それって、やっぱり何かが悪さをしているせいだと思うんです」
「でも、今は何も見えないんだろ?」
 弟子の表情が昏い不安に沈んでいくのを見た霊幻は、安心させるように少年
の丸い頭を撫でた。
「エクボもはっきり見えないと言っているし。なら単に呪いの滓が残っただけ
かも知れないだろ?」
「師匠――」
『だったらいいんだけどな』
 エクボは二人から見えないよう、小さく溜息を吐いた。
 見えるような気がする、などと言葉を濁したが、お節介な悪霊の中では既に
それは規定事項だった。
『俺様が視ても見えない呪いとは……厄介な事になったぜ』
 あの洋館で退治した呪いは、言うなれば残滓のようなものだった。負の念が
多く固まっていたせいでそれなりに強大ではあったが、所詮烏合の衆、しかも
呪うべき相手は既にこの世にいないときた。
 今霊幻に入り込んでいる呪いは違う。
 はっきりと彼だけを狙ってくり出された呪いは、ぶれる事も惑う事もなく、
真っ直ぐにその精神へ纏いついている。
『一体どこのどいつが呪ってやがるんだ』
 口先だけで世渡りしているような零能を呪ってみても、相手には何の得にも
ならないだろうに。
「ともかく、依頼主からは呪いが消えたのは良か――」
〝良くネェよ!〟
「良くないです」
 余りにも暢気過ぎる霊幻の言に、茂夫と同時に被せ気味に突っ込むも本人は
至って平常心だ。
「除霊できなかったらお金を貰えないだろう」
 だから良いのだ、と笑う霊幻に流石に突っ込む気力も失せた悪霊は、同じく
無表情に疲れた顔を見せる相棒と溜息を吐いた。







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