Es rappelt im Karton 1


 どこからともなく小鳥の声が聞こえてくる。草原や森林で聞くなら、それは
長閑な昼下がりとでもいえそうだが、生憎とここは薄暗い廊下だ。随分と前に
遺棄されたビルらしく、放置されたままの通路にはく埃が積もっていた。
 と、奥の方から何者かの言い争うような声音が響いてきた。慌てたのか何か
ひっくり返す音もする。
 一呼吸空けて反論らしきものが響き、次の瞬間。
〝この詐欺師どこまで手間ぁかけさせやがんだ!〟
 怒鳴り声と共に派手な音を立てて扉が吹き飛んだ。
 ここに【見える者】がいれば即座に気付いたろう、凶悪なまでに強い霊圧が
それをなしえた事を。
「うるせぇな、誰も頼んでないだろ!?」
 最後のきとばかり、情けない軋み音と共に扉が倒れていくのを構いつけも
せず、中からは怒り心頭な凸凹コンビが飛び出してくる。
 一人は青年だった。すらりとした長身に金髪という日本人離れした容姿だが、
生憎今は髪は乱れスーツもあちこちに埃がつき、惨憺たる有様だ。
 もう一人は――果たして彼を【人】と呼称していいものか悩むところだが、
朧な翠碧に光る人魂だ。顔があり、何故か小さな腕も生えている。
 暗闇で出会ったら十人が十人、悲鳴を上げて逃げ惑う事になりそうな凶悪な
面構えだが――そもそも、それ以前に霊魂だが――今はその悪相を更に歪め、
青年に向かって口角泡を飛ばしていた。
〝結局尻拭いするのは俺様じゃネェか!!〟
 小さな手がぐっと握り拳を作り、振り上げられる。怒りに連動してか翠碧の
火焔が大きく揺らめき、周囲にぞわぞわと溢れ出た霊気が薄暗い廊下をそれと
判る程に照らし出した。
 強烈な霊圧が辺りを焦がす。
 それなりに霊素を溜め込んでいたような霊さえも慌てて逃げ出すのが、視界
の端に見えた。それ程の威圧、それ程の霊気。
 だが、憤る霊魂に対し青年の方は全く無の境地らしい。
「だから誰も頼んでな――」
〝喧しい!!! 早く行け!!!〟
 叫び様、人魂は背後に追い縋ってきた黒霧に噛みつき、飲み込んだ――後も
見ずに逃走する青年の周囲に鋭い視線を走らせたまま。


 事の発端は工事業者からの依頼だった。ほとほと困り果てた様子で、冷汗を
よれたタオルでいっそ気の毒なくらい拭き続けている。
「お祓いは、勿論しました」
 先刻、ぎこちない様子で茂夫が持ってきた麦茶に漸く気付いたように咽喉を
潤す。
「でも、霊障は止まりませんでした。他の霊能者にも見て貰ったのですが――」
「特に異常はなかったと」
「はい。昨日は内装を剝がす予定だったのですが……どうにもお手上げです」
 工期も遅れに遅れ、このままでは会社の名前にも傷がつくとあって男の顔色
は白茶け、まるで死人のようだった。
「ふむ。かなり強い悪霊のようですね。通常、霊というものは己の存在を誇示
してくる者が多いのですが……そう、例えば小さな物を動かしたり写真に写り
込んだり仲の良い恋人を別れさせたり、などといった事ですね。そこを敢えて
ぎりぎりまで隠れ潜んでいる。前例がないとは言わないが、珍しい。そもそも
破壊しようとした壁に工具が通らないなど、強力な霊力を持っている証拠です。
物理現実に干渉できるというのは……御想像通りこれはかなり珍しい部類です。
大概は気のせいで終わってしまうレベルですから。そして、工事の邪魔をして
くるのは決まって遅い午後と。朝でもなく夜でもない。これも何らかの霊的な
拘りでしょうね」
 青年は立て板に水の如く言葉を発した。時々、つらつらと手帳に何やら書き
つけている。
「ああ、ところで。ビルの来歴はお調べになりましたか」
「はい。オーナーからも頂きましたが、流石に状況が状況なので、こちらでも
独自に。やはり特に変わった点は」
「そうですか……では、事件や事故以外にも嫌がらせや愉快犯の線も考えねば
なりませんね」
 難しい表情のまま頷き、青年は最後の文字に強めにアンダーラインを引く。
 困り果てた依頼人には見えないが、そこには【ユカイ犯】と書かれていた。
【輸怪】と書きかけて二重線で消した跡がある。どうやら字が出てこなかった
らしい。
「お願いします霊幻先生。助けて下さい。もう他に頼れる方がいないのです」
 断られては後がないと思い決めた依頼主は、必死の形相で掻き口説く。
「こういった事例に心当たりがない訳でもありません。安心してお任せ下さい。
この霊幻新隆、必ず解決に導いてみせます。ですが、こちらも色々と準備など
ありますので……そうですね、明日のお伺いで宜しいですか」
 ぱらぱらと思わせ振りにスケジュールを捲る霊幻。
「有難うございます先生、助かります、有難うございます!」


 工期と霊障と渉外の三竦みで身も細る思いをしていただろう依頼人に、軽く
マッサージを施してから送り出したお蔭もあってか、来た時よりも余程明るい
表情で帰っていった依頼人を見送った霊幻は、無表情のままに首筋を揉んだ。
「師匠」
「うん?」
「お一人で行かれるんですか」
 こちらも相変わらずの無表情だったが、心配の色も仄見える弟子に向かって
霊幻は意図的に自信満々な笑みを浮かべてみせた。
「ああ、調味市からはちょっと遠いしな。霊障を確認して除霊にするにしても
そこそこ時間もかかる。流石に子供を連れ歩くにはちょっとマズい」
 ざっと計算しただけでも移動に一時間半はかかる。目的地の調査に除霊準備、
実行、片付け、依頼主への状況説明などで二時間、帰りにも同じだけ移動時間
がかかる事を考えると、相談所に戻れるのは二十一時を過ぎるだろう。
「僕、もう子供じゃありません」
「モブ、そんな事を言っている内はまだ子供さ。今回はそれ程厄介な依頼でも
なさそうだし、大丈夫だ」
「本当かなぁ……」
 ちらりと見上げれば左上に浮かんでいた霊魂も茂夫と同意見だったらしく、
ばかり巨大で大して強くもない悪霊を噛み潰したような表情を浮かべていた。


 翌日。
 本来は茂夫のバイトの日ではなかったが、やはり心配だったのか様子を見に
きた出来た弟子に、霊幻は安心させるように一つ頷いてみせた。
「僕が駄目なら、芹沢さんと一緒に――」
「おいおい、あいつ今日テストだぞ。途中で切り上げて来いなんて言える訳が
ないだろう」
「あ……」
 今までの努力が実るかどうかを分ける大事なテストだ、茂夫にもその苦労は
十二分に解る。
 芹沢が来たら帰っていいからな、と言い置いた霊幻は、ショルダーバッグに
除霊道具を詰め、本人としては颯爽と出かけていった。
 困った。と見上げた先に、既に霊の姿はなかった。どうやら何を言わずとも
同行してくれる気になったらしい。
「エクボ……」
 ほっとして茂夫は愁眉を開いた。
 それからほんの十分後、今度は押しかけ秘書の暗田から首を絞められながら
質問攻めに遭うとも知らず、茂夫の心は平らかだった。


 相談所での一幕など知る由もない霊幻は、快速切符とペットボトルを購入し、
のんびりと電車の住人になっていた。敢えて特急にしなかったのは時間に余裕
を持たせて出てきた事と、差額を収入の一部に充てるためだ。
 依頼人には、必要経費プラス僅かな報酬しか要求しないというスタイルは、
未だ変わっていない。同業他社に至っては十倍どころか百倍近いところもある
中で、霊幻の価格設定は破格だ。しかし、今に至るまで談合だぼったくりだと
文句が出ないのは、顧客側でもいい具合に棲み分けが出来ているかららしい。
「ウチは親切丁寧、低価格にして堅実がモットーだ!」
 キラキラ目で拝聴する芹沢と暗田の横で、弟子と悪霊の目が線になっていた
のも記憶に新しい。嘘つけと思ったのか、本物の除霊に対し安過ぎると思った
のかまでは定かではない。
『まあ、実際に本物の除霊も増えているし、オプション料金を多少改定しても
いいかな……千円くらい』
 どこまでも庶民感覚が抜けない霊とか相談所所長だ。
 脳内では太っ腹〜と拍手する超能力者二人と自称秘書の真上から、顔中口に
してぷんぷん怒りまくる悪霊が浮いている。
 お前、それはいくら何でも安過ぎだろーが。まず基本料金を何とかしろよ!
幻聴まで聞こえてきた。
 いつの間に自分は、あのお節介な悪霊の事をこうまで簡単に想像できるよう
になったのだろう。
 苦笑いした霊幻は、電車の揺動に身を任せながら現場の見取り図をもう一度
取り出した。


 予定通り一時間半後、霊幻の身体は問題の廃ビルの入口にあった。
 遙か高処を、小鳥が高く鳴き交わしながら飛び過ぎていく。二つ三つ綿雲が
浮いているくらいで風も殆どなく、汗ばむ程の陽気だ。大通から数本奥まった
立地のせいか、周囲には驚く程人影はない。
 時刻も十六時四十分過ぎ、まずまずだった。本来ならまだ工事が続けられて
いる筈だったが、相次ぐ騒動でどうにもならず、十五時半以降の工程は軒並み
取り止められているらしい。
 除霊するにあたって一般人の介入は危険過ぎると判断し、今日は工事関係者
もビルのオーナーも来ていない。
 霊幻だけが一人、佇んでいる。
「さて。愉快犯はどこのどいつだ?」
 ポケットに忍ばせた博多の塩の在処を手探る。
 既に入口の自動ドアは取り外され、ただの空洞になっていた。気のせいか、
中は異様な程に薄暗い。霊幻は特に気にする素振りもなく、張られている防音
シートを潜り、廃ビルに乗り込んだ。
 エントランスフロアはタイルを剝がされ、壁紙もなくなり、柱ばかりが鈍色
の光を放っていた。重苦しい気配。
「取り敢えず、壁を壊せなかったと言っていた部屋に行ってみるか」
 見取り図によれば、それは三階の一番北側の部屋らしい。
 目の前にあったエレベータの呼び出しスイッチを押す。
「………」
 当然の事ながら電気が来ていないため動かない。誰も見ていないというのに
ちょっと赤くなった霊幻は、念のためとでもいうように、スイッチに塩を擦り
つけておいた。
 踵を返し、非常階段の方へ進む。非常口のマークも今は明かりを落とされ、
薄闇に沈んでいる。重量感のある鉄扉も霊幻の一引きで抵抗なく開いた。
 気温が数度下がったような気がしたが、これも気のせいだろうと独り決めし、
コンクリート製の階段を上り始める。
 何の妨害にも遭わず三階へ着いた。
「ん〜?」
 窓硝子を外す事もできなかったのか、そこは埃っぽく人気がない事を除けば
極普通のオフィスビル内廊下の様相を呈していた。
『北の端……北の端……っと、ここか』
 途中の部屋は全てパスし、奥まった角部屋へ到達する。
 流石に緊張の色は隠せない。
 そっとドアノブに手をかける。
 がちん、と硬い音がして扉は微かに揺らいだだけに終わった。
「誰だよ、鍵をかけたままにした奴は」
 呟きつつ、事態の異常さに霊幻の眉根が寄せられる。
 昨日の話だと、依頼人は内装を剝がせなかったと言っていた。つまり、その
時点までは部屋の中に入れた筈だ。
『いるのか……愉快犯』
 もう一度、霊幻は脳内で見取り図を展開した。確かこの部屋は隣と続き部屋
になっていた。数歩戻り、隣の部屋への扉を開けてみる。いけた。
 今度は何の抵抗もなく素直に開いた扉を潜り、霊幻は室内へ足を踏み入れた。
 隣部屋との境にあたる壁が、厭に薄暗い。
「掃除不足か」
 窓にはカーテンもブラインドもなく、更に外は燦々と陽が照っているという
のにこの暗さは異常だった。という事を全て気のせいの一言で片付け、霊幻は
いよいよ問題の部屋への扉に手をかけた。
 異常な程の重量感を感じさせながら扉が開いていく。
 いっそ軋み音がしない事の方が不思議な程だ。
「は?」
 室内は、真っ暗だった。
 窓はある。陽も射しているのが見える。だが、その光は切り落としたように
室内へは入ってきていない。
「何の手品だ……?」
 胸ポケットから携帯を取り出し、画面の光で周囲を見回してみる。
 がらんとして、何もない。デスクやロッカーがあった形跡が残っているが、
全て床の埃と日焼け跡だけになっている。
「誰もいないじゃねーか」
 そのまま直進し、壁際に到達する。
 肩透かし、と思うには暗闇もそうだが、先刻から空気の冷たさが気になって
いた。しかも、気のせいでなければ徐々に寒くなってきている。
『クーラー……いやいや、電気は来ていなかった。なら、やっぱり本物――』
〝恨めしや〜……〟
「うわあ!」
 いきなり耳許で下腹に響く低音が囁きかけ、緊張の限界に達していた霊幻は
蹌踉めきながら振り向き、闇雲に塩を撒き散らした。その際、何か蹴飛ばした
ような気もするが、それどころではなかった。
〝うお、危ネェ! お前、何てものを振り撒いてるんだ!〟
 瞬間、周囲に翠碧の光を放って顕現した、見慣れた悪霊が目に映る。
「え、え、エクボか!」
 一気に緊張から解放され、全力疾走してもこうはならないという程に激しく
脈打つ心臓を抑えながら、霊幻は安堵の吐息をついた。悪霊を見て安堵という
のもどうかと思うが、知らない場所で困っていたら知り合いに会った程度の事
だと華麗に流す。
〝俺様だ。で、何だよその塩は。茂夫のパワー入りか?〟
「そう。危ないから持って行ってくれって渡された」
 悪霊の顔がくしゃりと歪んだ。困ったような笑いにも、微かな嫉妬に歪んだ
ようにも見える。
〝どんだけ念を込めたんだか〟
「モブの愛だよ愛」
 妬けるか?
 と、態とらしい笑みを浮かべた霊幻が一歩踏み出したところで足許にあった
何かを踏みつけた。ぱりん、じゃりじゃりと更に砕けた陶器の感触がする。
「ん?」
〝あ?〟
 零能力と言われた霊幻にさえ、その黒いものははっきりと視認できた。視線
をずらしていけば、大きく広がった胴体と違い足許は何やら小さなものに縛り
つけられている。この場には余りにもそぐわない、それ。
「おどろおどろしくもファンシィな……壺の破片?」
〝げ、こりゃ魔津尾の――〟
 言い果てもせず、悪霊は霊幻の身体を手前に引き寄せた。すぐ後ろを強烈な
妖気が薙ぎ払っていく。
〝っぶネェ……おい霊幻、逃げるぞ〟
「いやいやいやいや、何を言ってるんですかエクボさん。これを片付けないと
工事の人達が仕事に戻れないでしょうが」
〝何言ってるんだはお前だ。こんな妖気芬々な奴と戦う気はないぞ、俺様は〟
 エクボの額辺りから冷汗がたらりと落ちる。
 前回事を構えた時より数段パワーアップしている、その蠱毒の悪霊に途轍も
なく厭な予感しかしない。
「あっれぇ、上級悪霊様が尻尾巻いて逃げるんですかー?」
 にやにや笑いと共に今度は霊幻が博多の塩(モブの全力が籠もったもの)を
蠢く妖気へ向け、景気良くぶちまけた。見事命中したところは跡形もなく溶け
落ち、残った部分が怒りの反撃をくり出してくるのを、またもや的確な悪霊の
サポートで避けまくる。
「避け、反転、受け流し、からのアクロバット避け!」
 御丁寧に塩を撒きながら回転するものだから茂夫の力が辺り構わず放射され、
どこぞの変身シーンのように光り輝いている。
「ソルトスプラッシュ!」
 調子に乗ってポーズを決めたところで悪霊が切れた。
〝つーかいい加減にしろよてめぇは! 温厚な俺様でも仕舞いにゃ切れるぞ〟
 喚き様、エクボは背後から襲ってきた悪霊を殴り飛ばした。
 その勢いのまま、鍵のかかった扉も吹っ飛ばす。衝撃の余波で、割れていた
壺が完全に粉々になった。
「温厚な悪霊、とは」
 振り返りつつ、もう切れているじゃないかと言いかけた霊幻はエクボの姿に
目を見開いた。
「ぶっは、なんだよその腕」
 左腕だけが巨大化したエクボが空中で(本人としては)仁王立ちしていた。
寧ろ腕の方が本体になる勢いだ。
〝この詐欺師どこまで手間ぁかけさせやがんだ!〟
 げらげら笑っている暢気者の襟首を引っ張り、更なる攻撃を避けさせた。
 アンバランスな腕の中、当たり前のように納まったままで片頬を歪めてくる
霊幻。己の霊気を浴びてほんのりと翠碧に染まるその顔。
 悪霊から護って貰うのに悪霊を頼る、その奇妙さを疑ってもいない。
 ――典型的な詐欺師の顔だ。
 それにまんまと引っかかってしまった自覚があるだけに、余り強くも出られ
ない。怒りに任せというよりほぼ八つ当たりに近い感情で霊力を振るうエクボ
に、更に追い打ちをかけるような霊幻の言葉。
「うるせぇな、誰も頼んでないだろ!?」
 ああ、絶対に扱き使うための常套句だ。解っていて悪霊ものせられてやる。
〝結局尻拭いするのは俺様じゃネェか!!〟
 蠱毒の悪霊とエクボの気配に吸い寄せられるように、そこいらを漂っていた
低級霊も続々と集まってきている。少しでも霊素のお零れに与ろうと、か弱い
意志を振り絞ってきたものらしい。
 だが、殆どが何をする間もなく、二体の戦いの余波で散り散りになっていく。
 とはいえ、雑魚霊の殆どが弱者と見定めた霊幻の方へ攻撃の手を出し始めて
いた。いかな上級悪霊のエクボといえど、全く抵抗できない人間を護りながら
そこそこ力のある悪霊を倒すには些か都合が悪い。
「だから誰も頼んでな――」
〝喧しい!!! 早く行け!!!〟
 ぶち抜いた扉から廊下へ飛び出す。
 駄目押しに左腕で背中を押しやると、エクボは雪崩を打ってついてきた黒い
霧に牙を立てた。押しやられた霊幻が文句も言わず、元来た道を駆け戻るのを
横目に見ながら。
「あ、エクボ!」
 数歩走ったところで蹈鞴を踏んだ霊幻が立ち止まり、振り返る。
〝何だ、早く行けよ!〟
「塩なくなった」
〝はあ!?〟
 真っ向から対峙していた悪霊を厭という程壁に叩きつけ、霊力で当座身動き
取れないようにしてから慌てて霊幻の傍へ飛んでいく。
 ごちゃごちゃと細かいものに集られていたが、幸いにしてまだ取り憑かれて
はいなかった。
〝そういう事は早く言えよ!〟
 いちいち飲み込むのも面倒で、左腕で祓い落とす。
 エレベータは使えない。非常階段までの途中には、復活してきた悪霊の気配
が色濃く蟠り始めている。
「俺にも見えるとは……面倒な事になったな」
〝誰のせいだ誰の!〟
 シリアスを装っているが、霊障のせいで脆弱な人の身体は震え始めていた。
取り憑かれていなくても、これだけ大量の霊に纏わりつかれれば無理もない。
 霊素の出し惜しみをしている場合ではなさそうだ。
 エクボは無言のまま、巨大化したままの左手で霊幻を引っ摑んだ。
「うわ危ねぇな」
〝いいから摑まれ〟
「摑まれったってどこに――」
 応えずエクボは霊力を限界まで上げた。小さな本体から溢れた霊素が霊的に
最弱な霊幻の全身を包むように、一瞬ぶれる――小さな人魂から、霊気を極限
まで高めた巨人へと。
 遅滞なくフル霊力を発揮したエクボは、ぽかんと見上げた霊幻を軽々と抱き
上げた。纏わり憑いてくる雑魚霊を一蹴りで下し、窓際へ走り寄る。
「ってお前まさか……ここ三階」
 そのまま窓硝子を蹴り飛ばしその身を躍らせた。咄嗟に腕に縋りついた霊幻
をしっかり抱えて。


 半回転し、地上へ降り立つ上級悪霊。
 姿は往時の頃と然程遜色ない。夕陽に染まった風景の中、そこだけ輝かしい
翠碧の力が溢れ出している。
 腰を抜かしたのか、或いは障りが限界を超えたのか。意識をなくした霊幻を
抱えたまま、エクボは鋭く上階を見上げた。
〝ついてこネェな〟
 蠱毒の悪霊は最後の一体になるまで完成しない。まだ何体か、そこそこ力の
ありそうな霊体も残っていた。それらと戦い吸収しない限り出られないのかも
知れない。
〝壺、壊しちまったが……関係ないのか〟
「……というより、このビル全体が【場】なのよね」
 その登場を予想していたエクボは、さして驚かなかった。悪霊使いが完成を
間近で待たない筈がない。
「久し振りね、マシュマロちゃん」
〝その呼び方は止せ〟
 振り返った先に、予想通りの姿がある。
「あと少しで完成するところだったのに、残念だわ」
 軽く首を傾げ人差し指を頬に当て、うっすらと妖しい笑みを浮かべる魔津尾。
〝そりゃ悪かったな〟
 こちらも、少しも悪いとは思っていない悪辣な表情で返す悪霊。
「でも、まぁ今回は面白いデータも取れた事だし、見逃してあげる」
〝有難いこって〟
 あれから色々あったが、エクボの力はかなり強くなっている。が、魔津尾の
方も当然遊んでいた訳ではないだろう。あの時以上に厄介な悪霊を飼っている
かも知れない事は、想像に難くない。正直、意識のない霊幻を抱えたままでは
やり合いたくなかった。
〝つーかよ、何だって取り壊し予定の廃ビルなんかで蠱毒を作ってたんだ〟
「あら、それは勿論、ここに割と見所のありそうな悪霊が巣くっていたからに
決まってるじゃない」
 傍迷惑な、と悪霊は思ったが口にはしなかった。
 それに対し、魔津尾の方も、ふふ、と韜晦の笑みを浮かべるだけに留める。
そして、話は終わったとばかり軽く腕を上げ、歌うように呼ばわった。
「いらっしゃいシュトレンちゃん」
 霊幻とエクボを翻弄した悪霊は先刻までの兇暴さが嘘のように、犬が尻尾を
振って戻ってくるようにいそいそと悪霊使いの腕に絡みついた。
 工事現場の人達には災難だったが、取り敢えず奴が引いてくれるなら依頼は
完了だ。ただ人に、途中経過は知らせる必要はない。
「では、また」
 小さな容器に悪霊を収め、魔津尾は優雅に身を翻した。
〝そんな機会がない事を祈るぜ〟
「……おかしな悪霊ね、【何】に祈るというの?」
 応える前に、その姿は薄暮に沈みかける林の向こうへと消えた。
〝そりゃ勿論、【神】にだろうさ〟


〝霊幻……おい、霊幻〟
「う……」
 取るものも取りあえず廃ビルから離れ、道路側からも見えない塀の陰へ腰を
下ろしたエクボは改めて霊幻の様子を窺った。軽く頬を叩いてみたが、意識を
取り戻す様子はない。
〝ちっ、やっぱり障ってやがったか〟
 フル霊力状態で視れば、それは一目瞭然だった。脆弱な零能力者の身体には
びっしりと、弱いとはいえ薄汚れた呪いが絡みついている。
 これが普通の人間相手だったら、霊力の風ともいうべき衝撃を当ててやれば
簡単なのだが、何せ相手は零能の霊幻だ。そんな事をすれば呪いが余計に絡み
つくか、下手をすれば霊体に傷をつけてしまう。
〝めんどくせぇな〟
 手を突っ込んで呪いを引き摺り出してもいいのだが、時間がかかりそうだ。
暫し考えた悪霊はにやりと片頬を歪めた。
 そのまま全身を巨大な霊素の塊に変質させる。
 見かけは人を駄目にするクッションだ。
〝よし、まぁこんなもんか〟
 吹き飛ばすのも引き摺り出すのも駄目なら、内側から燃やしてやればいい。
ちょっとばかり【熱い】かも知れネェがな。
 ぐったりした霊幻を己の霊体の真ん中へ具合良く据え置き、エクボは霊素を
燃やし始めた。


「無事に解決できたのは良かったです」
 給湯室から平坦な声が聞こえてくる。
 心配性の弟子は結局留守番を引き受け、師匠の戻りを待っていた。
 いつものように温めに淹れた焙じ茶を手渡してくる。
「……で、師匠のそれ。原因は何だったんですか」
 無表情のまま――しかしつき合いの長い一人と一体にはそれが多分に心配を
含んでいる事が見て取れた――茂夫が問いかけてくるのに、上級悪霊は鼻息も
荒く霊幻を指差した。
〝この度阿呆が蠱毒の壺を蹴っ飛ばしたんだよ。隠されてたのにピンポイント
で蹴っ飛ばせるとか、流石は零能力者だな。お蔭で有象無象が無限湧きしてよ。
大変だったらなかったぜ。こいつ、相変わらずザル防禦だし〟
 微妙に論点を逸らしつつ、そうエクボがえば。
「いやいや、あれは不可抗力だ。そもそもエクボが俺を脅かすから。俺だけの
せいじゃない」
 華麗に責任転嫁する霊幻。流石に耳許で囁かれてびびりまくったとは恰好が
悪過ぎるので、そこは端折っておく。
 そう、単にびっくりしただけで他の情動は一切なかった。誰が何と言っても
なかった。
 聞かれた訳でもないのに、霊幻は脳内で一頻り言い訳を並べ立てた。
〝いっつも俺様といる癖に、何を今更〟
 悪霊の方でも理解しているらしく、ニヒルな笑いを刻みながらこれまた耳許
に態とらしく囁きかけてくる。
「お前でも勝てない奴かと」
 止めろ、と押し返しながら、意趣返しにと悪霊なら看過できない言葉を投げ
返す。
〝待てよコラ。俺様より強い悪霊がそんじょそこらにいる訳ないだろう〟
 瞬間湯沸かし器のように頭から湯気を出し、小さな腕をぴこぴこさせながら
怒り出すエクボ。相談所の、いつもと変わらぬ風景だ。
「………」
 目を半眼にした茂夫を置き去りに、至近距離で怒鳴り合うというか、じゃれ
合っているようにしか見えない、大人気ない二人。
『僕が聞きたかったのは、何故師匠の身体にエクボの霊素がそんなに詰まって
いるのかって事なんだけれど』
 茂夫は小さく溜息を吐いた。
『エクボが霊障を祓ってくれた、んだよね。師匠、零感なのに大丈夫かな』
 じっと見詰める先、舌鋒爽やかにエクボの抗議を悉く打ち落とし、跳ね返す
師匠に具合の悪そうな様子は見えない。
 口では勝てないエクボが最終的にやり込められ、霊体が何となくへしょっと
したところを師匠の掌が優しく撫でていく。悪霊の方も解っていると言いた気
に小さな手を伸ばし、そんな師匠の指に触れている。
『二人共、いい加減素直になればいいのに』
 視線を逸らしながら茂夫は思った。


 流石にこれ以上空気を読めない振りをするのも限界。







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