Es rappelt im Karton 2


「し、師匠……!」
 いつもの放課後――から僅かばかり遅くなった、気怠い午後の陽射しが照り
返す相談所へ珍しく足音も荒く飛び込んできた茂夫。傍目には無表情を保った
ままの鉄面皮も、霊幻の目を通せばかなり焦っている事が見て取れる。
「よぉモブ、どうした」
「あ、あの、エクボが」
 肉体改造部で走り込みをするようになってからは持久力がついたらしいが、
どこから走ってきたのか、茂夫の息はまだかなり荒い。その表情の中に疲労と
いうより微かな恐怖を見て取った霊幻は、落ち着いた口調を崩す事なく穏やか
に返した。
「ん? エクボ? 今日は見てないぞ」
 悪霊の方で見せる気にならなければ零能力な霊幻には欠片も見えないという
事実は、今この場では何の意味もない。
「いえ、そうではなくて」
 いつもの茂夫からは想像できない乱雑さで鞄をソファへ抛り投げ、その腕に
抱えていたタオルの塊を差し出してくる。
「何だ?」
 流れるように受け取ってしまい、それが布切れだけではない事に霊幻は気が
ついた。
「……って、猫か」
 子猫という程には小さくないが成猫というには若干小柄だ。全身は真っ黒で
艶々とした毛並みだ。足の先だけ靴下を履いたように白くなっている。
「拾ってきたのか」
 首輪こそしてはいないものの、野良猫にしては小綺麗だから迷い猫なのかも
知れない。目を閉じたままなので、瞳の色はまだ判らなかった。
「そうなんですけれど、そうじゃないんです」
「ん〜? もうちっと解り易く」
 ただでさえ口下手な弟子を急かしてもろくな事にならない。言いたいように
言葉を並べるのを待つ事にした霊幻は、腕の中で眠ったままの猫を軽く撫でた。
「猫がいて、聞いたらエクボが猫に……っ」
 ――余計に解らなくなった。
「は? あいつ、悪霊じゃなくて猫又だったのか」
「そんな訳あるか」
 霊幻のある意味計算され尽くした察しの悪さに、茂夫の方でも冷静さを取り
戻したらしい。鉄壁の無感情が罅割れ、ほんの僅か黒いものが零れ出でた。
「だよな、腐っても上級悪霊だし」
 朧にこの先の展開が読めてきた霊幻は、続く茂夫の言葉に唇をひん曲げた。
「エクボに人間以外にも憑依できるか聞いたらこうなりました」
 一度深呼吸した茂夫は、今度こそ状況を正確に伝える事に成功した。
「……何にでも軽率に依り憑き過ぎだろう」
 予想通りやらかしたかというか、想像通り阿呆かと脳内で悪態をつく。
 尤も悪霊の名誉のために一言つけ加えるなら、動物に憑いたのはまだ二回だ。
しかも一度目は霊幻を助けるためという、殆ど不可抗力のようなものだ。
「ん〜、起きねぇな」
 しかし、いくらエクボが入っているとはいえ、恐らく走り通しだっただろう
茂夫の腕の中でも、今こうして霊幻の腕の中に移されて周囲でやいのやいのと
騒がれている中でも、渦中の猫は全く動じず眠ったままだ。
 髭をそよそよしてみても咽喉を擽ってみても、無視というより無反応だ。
「師匠どうしましょう僕のせいだ僕が余計な事を言ったばかりにエクボがこの
ままだったらどうしよう猫のままずっといるなんて悪霊が――」
「悪霊が廃るなんて事は全くないから安心しろ」
 言葉尻を強引に重ねて否定してやる。
 室内だというのに微風が湧き起こり軽いものがそこらを飛び回り始める中、
霊幻は表面上はあくまで泰然自若と、内心は戦々兢々とした面持ちで茂夫の頭
を撫でてやった。
「相手が妖怪や能力者ならともかく、こいつはどう見てもただの猫だ。エクボ
が何のつもりかは知らんが、自力でどうしようもできない訳じゃないだろう」
 ざわざわと逆立っていた茂夫の髪が、霊幻の手によって元通りになっていく。
「暫く様子を見ておこう。な?」
「……はい、解りました」
 迷い猫の貼り紙をするのは、とにもかくにもエクボが抜けてからという事に
なり、茂夫は心配気な視線をやりつつも宿題を片付ける事にしたようだ。


『しっかしエクボの奴、何をもたもたしているんだ』
 茂夫にはああいったものの、霊幻は決して状況を座視していた訳ではない。
 寧ろ憑依先が人外は人外でも猫などではなく、妖怪や悪霊の方がまだましだ
とさえ思っていた。言い包めるのか溶かすのか喰うのか、の違いはあっても、
やる事は同じだからだ。
『まぁその場合はこんな事態には陥ってなかったか』
 宿題をしながらその時の状況をつらつらと話す茂夫によると、エクボの魂と
いうか核は猫のそれと限りなく近付き、動かなくなったそうだ。呼びかけても
無反応で最初は強制的に引き摺り出そうかとも考えたそうだが、その前に師匠
に相談しようとする理性は残っていたらしい。
『いい判断だ』
 霊幻の長年の勘からいっても、こういう手合いを強制的に引き離せば片方、
或いは両方に恢復不可能なダメージが入る。彼我の能力の差からいって今回は
――
『流石に普段から上級悪霊だと自慢するエクボに何らかのダメージが入るとも
思えないが……まぁ猫の方は危ういな』
 液晶画面を覗き込む振りで、霊幻は膝の上に載せている猫の様子を窺った。
慌てていた茂夫は気付いていないようだが、この猫、左前足に怪我をしていた。
状況からいっても【お人好しの悪霊】などという、存在どころか字面からして
矛盾を孕んだ翠碧の風船擬きは猫の傷を癒やし中なのだろう。
『人間相手と勝手が違うせいか、それともスピードアップするためか知らない
が、返事もできねぇとか三下にも程があるだろーが。さっさと終わらせろよな。
モブに余計なストレスを与えるんじゃねぇよ悪霊が』
 脳内では一頻り悪態を並べ立てたが、霊幻の猫を撫でる手は先刻と変わらず
穏やかだった。
 とはいえ集中力を欠いていたせいか、お祓いグラフィックにも身が入らず、
いいだけ失敗作品を量産してしまった霊幻は早々に作業を切り上げる事にした。
「モブ、そっちの方はどうだ。終わりそうか?」
「はい、あとこの問題が解ければ」
「よし、じゃあそれが終わったら休憩にするか」
 人間用には茶菓子と焙じ茶、猫用に牛乳を温める事にした霊幻は、ちょっと
迷った末に猫をソファに寝かせ直す事にした。折角集中している茂夫の邪魔に
なるのは悪いし、硬いテーブルの上に放置するのも衛生的に給湯室へ連れ込む
のも躊躇われたからだ。
 よっこらせと立ち上がり、ソファへ近付いたところで猫の目が開いている事
に気付く。
「お、起きたかエクボ」
「エクボ大丈夫!?」
 流れ的に霊幻は猫を抱いたまま行き先をソファへ変え、その横へ茂夫が滑り
込んでくる。ぱっちりと開けた猫の目は見た事もない色をしていた。瞳を縦に
半分に割ったように、一つの眼の中で色が違う。
「こりゃ随分と変わった目だな……緑と金色か?」
「そんな事より師匠、エクボは」
 両側から覗き込まれた恰好になった猫の方からは何の反応も返ってこない。
怯えるでも威嚇するでもなく、かといって悪霊のいつもの憎まれ口が聞こえて
くる事もない。
「おーいエクボ。大丈夫かー」
 猫は霊幻を見て茂夫を見て、それからもう一度霊幻を見た。
「エクボ……?」
 猫は物憂げに瞬きすると、見たままそのままの声でにゃあと一声鳴いた。


「ほう、ダイクロイックアイというらしいな、この目は」
 オッドアイより珍しいらしいぞ。眼前のPCでさくっと検索したらしい霊幻は
暢気に猫の頭を撫でた。猫の方も満更でもないらしく、そんな霊幻の手に頭を
擦りつけている。
 相変わらず危機感一つない師匠と好対照に、茂夫の顔は蒼白になっていた。
「やっぱり僕のせいだ僕があんな事を言わなければエクボは――」
「いやだからちょっと落ち着け。大丈夫だって」
「何でそんな事が言えるんですか」
 無表情のまま、冷汗を大量に流し始めた茂夫が余りに可哀想になり、霊幻は
種明かしの必要を感じた。
「ほら、良く見ろよ。これエクボの手だろ」
「え」
 もう一度ソファに戻った霊幻は、石のように固まったままだった茂夫に良く
見えるよう猫の身体を持ち上げてみせた。
 ふわふわの毛に覆われた胸許からちょいと飛び出した、細くて小さな緑色の
腕。恐らく左手だ。二人の見ている前でそれがふりふりと振られる。
「え、エクボー」
「な、大丈夫だろう。恐らく、単純に猫の声帯じゃ声を作れないとかそういう
事なんだろうな。怪我もしているようだし、修復が終わったら出てくるだろう
から待っててやろうや」
 冷汗の代わりに今度は目から青春の汗を流し始めた茂夫の頭も一緒に撫でて
やりながら、霊幻はそんな少年に見えないよう難しい表情を崩さなかった。
『モブにはああ言ったが、ヤバそうな予感しかしないなこりゃ』
 普段のエクボは、霊体状態でも普通に会話ができている。他人に憑依しても
以下同文だ。しかも、その【声】と認識している音声は誰に憑依してもいつも
同じだ。つまり、純粋に声帯を震わせて音を作っている訳ではない。そもそも
霊体に声帯なぞない。
 それが、何故か現状一言も発しない。発せないと見た方が良さそうだ。
『何とかして意思疎通しないと』
 安心したらしい茂夫がお茶を用意してくれようと給湯室へ消えたのを潮に、
霊幻はエクボの小さな手にボールペンを持たせてみた。
「……やっぱり無理か」
 何度試してもボールペンは手を擦り抜け、一瞬たりとも保持できない。
 ならばと霊素で焼き付きできないかと紙を持ってきてみたが、これも空振り。
ボールペンすら持てない手ではマウスなら尚更難しいだろうし、生憎と相談所
には液タブなどという最先端の機器はない。声が出ないなら音声認識も無駄だ。
『あれ、これ詰んでね?』
 三秒程考えたあと、霊幻はアナログ方式でいく事にした。
「エクボ、聞こえるか。聞こえたらグーだ」
 エクボの小さな手が間髪入れず拳を握る。
「助けが要るか。要るならグー、要らないならパーだ」
 手は握り締められたままだ。
『これはいよいよもってヤバすぎる』
 現状、意思疎通できたとはいえ、それは一方通行に過ぎない。霊幻が的確に
質問をしていかないと何も解らない上に、答も用意しておかないとエクボには
返答のしようがない。
「師匠、どうぞ」
「お、済まんな」
 適温よりやや温めに淹れられた焙じ茶を口へ運びつつ、手はまたもや無意識
に猫の背中を撫でた。
「師匠、このあと予約のお客さんは入ってますか?」
「いや、さっきのが最後だ。飛び込みがない限り今日は店仕舞いだな」
 ぱりぽりと煎餅を囓りながら茂夫は軽く首を傾げた。視線は猫に向けられた
ままだ。
「じゃあ僕、その猫を連れて帰りますね」
「おいおい、親御さんに怒られないか?」
「大丈夫です。エクボも入ったままだし。師匠のところ、ペット禁止でしょう」
 ほんの数日の事だしと――切実にそうであって欲しい――自分が連れて帰る
つもりでいた霊幻は、それならと茂夫に猫を渡そうとして、ふとエクボの手に
気付いた。
「待った」
「何ですか」
 猫の胸許から飛び出すエクボの小さな手。それが、霊幻のワイシャツに必死
に縋ろうとしていた。摑めるものなら握り締めただろう。ボールペンすら持て
なかった事で予想していたが、エクボの手は何にも触れず空を切っていた。
「エクボ、どうしたんだろう。師匠に摑まりたいのかな」
 猫を霊幻の身体から離そうとすると、小さな手は必死の様相でぱたぱた空を
切る。元通り猫を膝に戻すと、ぎゅっと摑まる仕草をする。離そうとすると、
また焦ったようにぱたぱたする。
「………」
「………」
 これは、どう見ても。
「エクボ、師匠といたいみたいですね」
「うーむ、そうみたいだな」
 見間違いようのない仕種に、師匠と弟子は猫を挟んだまま首を傾げた。


「さて、仕切り直しだ」
 エクボの手だけのジェスチャだけでは細かいところまでは伝わり切らないが、
どうやらソファに寝かせるのも駄目らしい。霊幻の身体から離そうとすると、
とにかく止めろといわんばかりにぱたぱたしてくる。
「師匠の傍がいいの? 僕じゃ駄目なのかな」
「モブ、それじゃエクボが返事できないだろう。エクボ? 俺が抱いていれば
いいのか? イエスならグー、ノーならパーだ」
 小さな拳が作られる。
「何で師匠?」
 その疑問は霊幻にも尤もだった。
 超能力者の茂夫ならともかく、常々零能力と揶揄される己に何の力があるの
だろうか。
「モブじゃ代わりにならないのか。イエスなら」
 言い終える前に拳がぎゅぎゅっと作られた。
「う〜ん」
 反対方向に首を傾げた茂夫の顔を、本体の猫の方もじっと見詰めている。
 相変わらず大人しい。最初に挨拶するように鳴いたあとは、スフィンクスの
ように背筋を伸ばしたまま、視線を動かしたり髭を動かすくらいで殆ど身動き
しない。眠いのかとも思ったが、目はぱっちりと開いている。
「何だろうな。俺じゃないと駄目な理由」
「何でしょうね」
 二人して暫し悩んでみたが、はかばかしい答は浮かばなかった。
「仕方がない。エクボの希望通り抱っこしておいてやる。明日になったら何か
いい考えも浮かぶかも知れないし、取り敢えず今日はこれで解散だ」
「済みません師匠」
「モブが謝る事じゃないさ。考えなしに飛び込んだエクボも悪い」
 またしゅんとし始めた茂夫に、霊幻は慰めの言葉をかけた。
 恐らく声が出たならエクボも同じ気持ちだろう。相変わらず小さな左手だけ
しか見えないが、その手が茂夫の腕に伸ばされ、よしよしというように撫でて
いた。


 出張用に用意してあった着替えを詰め込んだスポーツバッグの中に、何とか
猫を仕舞い込み――非常に助かる事に厭がりもせず自分から入ってくれた――
当面の食材を揃えにコンビニへと寄り道し――更に助かる事に、普通の猫缶で
問題なかった――漸く帰宅した霊幻はほっと溜息を吐いた。
 猫べったり状態のままでアクロバティックに着替えと風呂と食事を済ませた
頃には、外はとっぷりと暮れていた。
「頼むから大人しくしていてくれよ。バレたら追い出されるからな」
 霊幻の必死の願いが通じたのか、それともエクボが内側から協力してくれて
いるのか、猫は暴れ回る事もなく鳴き声を上げる事もなく、黙って霊幻の膝に
座っている。
「しっかしモブにはああ言ったものの……何も思いつかないな」
 ソファにだらしなく腰かけた霊幻、の膝に行儀良く香箱座りする猫、の胸許
からぴょいと飛び出ているエクボの左腕。端から見るとシュールすぎる光景だ。
 何となく、猫の咽喉許を擽ってみる。
 猫の方も厭がりもせず、控えめに咽喉を鳴らし始めた。
「どう見てもただの猫だよなぁ」
 仰け反るようにしてこちらを見上げてきた瞳が珍しいだけで、あとは靴下が
可愛い。肉球触らせてくれないかな。おお、ぷにぷにだ。疲れ過ぎたせいか、
思考が適当な方向へ彷徨ってくる。
「なぁエクボ。お前、どうして欲しいんだ」
 答の返らない事を解っていて、霊幻はぼそりと呟いた。
 小さな左手は困ったように、或いはもどかし気にぷるぷる震えた。


『あれ、俺、いつの間に眠ったんだ』
 あのままソファで寝落ちしたのだろう事はすぐに察せられた霊幻は、しかし
今いるここがそのままの意味で自室ではない事にもすぐ気付いていた。
 頭を上げ、周囲を見回す。一見、いつもの自分の部屋だ。
 だが、あからさまにおかしいところがある。まず、廊下へ出られる筈の扉が
ない。窓にはカーテンが降りているが、普段なら街灯の光が漏れ出てくる筈の
それもない。
 それに、何といっても一番の違和感。ぴぃんと張った、清澄な中にも微かに
感じる人ならざるものの気配。
「夢、か」
〝疑う事なくここが夢の中だと解するか〟
「ああ?」
 左側からかけられたその【声】に、霊幻は驚く事もなく視線を投げた。その
傍で偉そうにふんぞり返っているのは、良く見知った筈のエクボだ。
 だが、【それ】がエクボである筈がなかった。
 普段から霊素が勿体ないといって、滅多な事では省エネ形態を崩さないのに
全身を表出しているのがまずもって不自然だし、そもそも言動がおかしい。
 醸し出す雰囲気さえ全く違う。
 ――誰だこいつは。
「いや、普通判るだろう」
 胡乱気な目つきになった霊幻は取り敢えず、相手の出方を見る事にした。
〝夢の中は曖昧模糊としているもの。そもそも、意識がそのようにはっきりと
目醒めているのも珍しい〟
「俺の事はどうでもいい。お前、あの猫なのか。エクボをどうするつもりだ」
〝あれも借り物だ。借りたはいいが何の力もなくて困っていたところに……〟
 エクボの姿を纏った何者かは、ゆるりと微笑みを浮かべた。
 どうでもいいが、その姿でやると悪役感が半端ない。本家本元の悪霊よりも
悪の薫りの横溢する謎。
 なまじ気配が魔に振り切れていないだけに、そのアンバランスさは却って気
を引いた。
〝この悪霊、御親切にも力を貸してくれるというのでな〟
 右腕がゆっくりと首許まで上がり、思わせ振りに頸動脈から心臓へと彷徨う。
白光を反射した黒い爪が不気味に光った。
 静寂を纏ったまま威圧感だけが膨れ上がる。
「嘘つけ。エクボ、厭がってるじゃねーか」
 切り捨てるように言い放った霊幻へ、【それ】は僅かに目を見開いた。
〝完全に存在を掌握したと思ったが、そなた、悪霊の様子が判るのか〟
「当たり前だ。俺を誰だと思ってる」
 霊幻は、こちらも精一杯胸を張り、当人としてはできる限りのあくどい笑み
を浮かべてみせた。
「いいからさっさと返せよ」
 すっと掌を上に向け、相手の目の前に突きつける。
 こちらは座ったまま、相手は立っているので体勢的には些か分が悪い。だが、
そもそもが夢の中なのだ、姿勢がどうであろうと同じ事だろう。
〝厭だと言ったらそなたはどうする?〟
『あー、やっぱりそうくるかー。デスヨネー!』
 脳裡で一頻り文句を吐き散らした霊幻は、下腹に力を込め、ここで漸く立ち
上がった。
「それでも返して貰う」
 何の根拠も確信もなかったが、霊幻は予備動作なしに腕を上げるとエクボの
肩――は抱きつくには高過ぎて不都合だったので、両腕をしっかりと腰に回し
抱え込んだ。
 腕は突き抜けず、ちゃんと触れた。それは何とも表現しようのない不思議な
感触だった。
 大仰に相手の身体が揺れる。
 触れたところから霊幻の身体の中へ、相手の力が物凄い勢いで吸い込まれて
いくのを感じる。余りに勁過ぎる力に、零能力といわれた霊幻も顔を顰めた。
後れ馳せながらも抵抗しようというのか、何者かの意志が宿ったままのエクボ
の腕が霊幻の首にかかり、絞め落とす前に強引に引き戻され、それ以上無体を
働かないようにか背中に回るのを感じる。
 正面切って抱き合う一人と一柱の完成だったが、それを論う余裕は二人には
ない。
「エクボ、頑張れ」
 余裕の笑みから一転驚きに変わった偽物の顔の上に、必死になっている悪霊
の表情が重なっている。
 相変わらず魔力なのか霊力なのかは不明だが、何者かの力が勢い良く霊幻の
身の裡に吸い込まれていく。痛みはないが、心臓の裏側がぞわぞわするような
感覚があった。
 あの時、茂夫の力を無意識に受け取った時とも微妙に違う、何かを無理矢理
分け入って入り込んでくるような力だった。余り長期に亘って受け容れ続けて
いればどうなるか――
〝れ、げん〟
「エクボ!」
 緑色の巨体の輪郭がブレ始めた。
「おい、大丈夫か」
〝霊幻……済まん〟
「は? エクボ!?」
 何とか形を保っていた霊体が跡形もなく粉砕され、それに驚愕する間もなく
一際強い力の塊が霊幻の薄い胸板に飛び込んだ。
 全身を走る悪寒。
 次いで周囲の風景に大きく罅が入った。
 夢の中だというのに、目の前に星が飛ぶ。
 一気に脱力した身体が崩壊していく周囲毎、奈落へ落ちていく。
 何かに摑まりたくとも辺りは真っ暗な空虚だけで灯りもなく、霊幻の身体は
石のように墜落していった。


 ゆっくりと呼吸を意識する。
 微かな空調の音。大丈夫、耳は聞こえている。
 いつもの自室の匂い。鼻も問題ない。
 口の中はからからに乾いているが、ちゃんと口も舌も動かせる。
 肌に触れているのは……何だこれは。
 霊幻は意を決して目を開いた。
「ぅわっ!」
〝お、起きたか〟
 超至近距離にエクボが浮いていた。
 目覚めの一発目が悪霊の――気のせいでなければ悪相を目一杯心配と不安に
占拠させた――表情で、控えめにいっても霊幻の心拍数は暴走した。
「な、何だよ一体」
 動揺を胸に押し込め、霊幻は身を起こした。いつの間にかソファからベッド
へ移動していたのか、かけられていたタオルケットが腰まで落ちる。
〝済まん霊幻。助かった〟
「は? 素直過ぎて気持ち悪いな。大体何だよ、この為体は。興味本位で何に
でも憑依するとか子供かよ。モブにもあんなにストレスかけやがって。少しは
反省したらどうなんだ」
 未だ動悸の納まらない心臓を胸郭に感じつつ、霊幻はいつものように己の口
がぺらぺらと悪態をつくのを呆然と感じていた。
 いや、違う、そうじゃない。そんな事を言いたい訳ではなくて――
〝今回は本当に悪かった〟
 普段なら悪霊もこうまで言い負かされてはいない。霊幻の言葉に三倍返しし、
更に百倍返しされて凹まされるまでが様式美になっている。
 それもどうかと思うが、今の問題はそこではない。
「……エクボ。説明、してくれるな」
 気のせいか、人魂状態のエクボの姿がしんなりした。


「……バッテリ扱いかよ」
〝まぁ、結論から言えば〟
 原因となった靴下猫は、起きてみれば消えていたなどという事もなく、目も
極普通の金茶色に戻り、今度はいかにも猫らしくベッドの上を我が物顔に占拠
している。自分の尻尾にじゃれつき、ころんころん転がっている。可愛い。
 怪しい気配も今はない。本当に、極普通の猫だ。
 それから視線をもぎ離し、しんなりを通り越して平べったくなったエクボへ
霊幻は注意を戻した。
「つまり、怪我をした猫に憑依したら先客がいたと」
〝そうだ〟
「相手は何と! 低級とはいえ神の眷属で、逃げる間もなく霊素を奪われた」
〝……そうだ〟
「霊素補充装置として扱われ、あわや消滅の危機!」
〝……それも当たってる〟
 畳みかけるように霊幻が言葉を連ねていけば、エクボは益々小さく縮こまり、
宙に浮いているのも諦めたのか、高度が徐々に下がってきた。
「何とかかんとか左手だけ実体化できたのは、俺が相手の霊力を掃除機宜しく
吸い取っていたからだと」
〝………ソノトオリデス〟
 もうどうにでもしてくれといった有様で、エクボは着地先の霊幻の腹に半分
埋まっていた。背中? 後頭部? がいじけているようにも見える。
 所々実体化しているのか腹の中にこそ感覚はないが、小さな手がトレーナー
を握っているのを感じた。
「……………………莫迦?」
〝…………………うるせぇ〟
 流石に神の眷属相手に茂夫の力を使わせるのは宜しくないという至極尤もな
判断をしたエクボを、霊幻は責める事はできなかった。どちらも天災レベルで
被害が甚大過ぎる。
 それにしても――
 上を見上げ、大きく深呼吸する。
「エクボ……お前、ほんと、いい加減にしろよ」
 咽喉が震えないよう、霊幻は一言ずつ区切って発音した。
〝悪かったと、思ってる。流石に……考えなしだったよ〟
 語尾が弱々しく感じたのは多分、きっと、気のせいだ。
 見下ろせば小さな人魂。そこから生えた小さな手。握り締められた小さな拳。
 片手で簡単に抱え込める魂を、霊幻は黙って抱いた。さしもの悪霊も、何も
言わなかった。言えなかったのかも知れない。


「で、神の眷属はどうしたんだ」
 取り敢えず二人の呼吸が落ち着いたところで、霊幻は気になっていた事を口
の端に上せた。
〝お前が吸収を邪魔してくれたからな。猫から引き剝がして蹴っ飛ばした〟
「蹴っ飛ばした、て……」
 啞然とすると、人は本当に口が開きっ放しになるらしい。仮にも神に連なる
ものを蹴飛ばすなど、ワイルドにも程がある。
『まあ、目標は神様らしいから、いいといえばいいのか』
 霊幻はその問題を華麗に流し、今度はあからさまに挙動不審な悪霊を摘まみ
上げようとして、失敗した。
「エクボ」
〝何だ〟
「触れない」
 姿が見えるから実体化しているものと安心していたが、悪霊はいつの間にか
霊幻には触れなくなっていた。
〝必要ないだろう〟
「じゃあいい加減離れろよ」
〝そっちはまだ必要がある〟
 悪霊は、未だ甘えるように霊幻の腹に半分埋まったままだった。
『甘える? こいつがそんなタマか』
「エクボ」
〝何だ〟
 先刻と同じ調子で発せられた霊幻の声に何を感じたのか、返答する悪霊の声
には若干焦りが含まれている。
「お前、何か別に隠しているだろう」
〝このまま騙されてちゃくれネェか〟
「……エークーボー?」
〝だよな〟
 苦笑したのか、微かな吐息が霊幻の皮膚を擽る。
〝あの最後の攻撃な〟
「ああ」
〝あれでお前の霊体に少し傷がついた〟
「ああ」
〝ちったあ動揺しろよ。で、だ。それを修復してる〟
「そうか」
 まあそんな気はしていた。
 夢の中で何か感覚を感じるだけでもあれなのに、眼前が痛みに白くなるなど
異常事態には違いない。
「で?」
〝で?〟
 察しの悪い悪霊様だなという突っ込みに、些か覇気に欠けるが反論が返って
くるのを霊幻は心中楽し気に、表面上は無表情に受けた。
「いつまでかかる?」
〝修理工場じゃネェんだ。そんなに早く終わるか〟
 流石に――いつものように――顔中口にして怒鳴り返すまではいかなかった
ようだが、大分調子を取り戻してきている。
 しおらしい悪霊なんて、優しい悪霊並に文意が破綻している。
 今日もまた、代わり映えしない一日が始まる。霊体の修理だそうなエクボを
腹に引っつけたまま、霊幻は珈琲を入れる事にした。


「モブが出勤してくる頃までには終わらせろよ」
〝……お、おう〟
 悪霊が八割方悪いとはいえ、自分の思いつきが師匠を傷つけたと知ったら、
今度は茂夫が切れるだろう。
 それは、かなり怖過ぎる。







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