Bloddy Dreams
LIO

 我が主、と冷たく凍った声に低く呼びかけられたその時、この運命の変転は
決定していたのかも知れない。
 暗闇に炯々と光る緋色の双眸。その、闇よりも一層濃い深淵と絶望とを身に
纏いながら、尚且つ刻んだような笑みを浮かべる、人ならざるもの。
 最強にして最凶なるモノ――不死の王
 心の中で、従僕となった彼の名を囁く。
 陽の出る直前の深い闇の中、その名は甘く苦く、舌を刺した。
 尤も、何度同じ場面に遭遇しても自分は同じ応えを返すだろう。手にする事
ができた筈の他の選択肢など、初めからあり得なかった。
 そう、それを後悔している訳ではない。
 血の色に染め上げられた己が手を、ぐっと握りしめる。勿論、手袋にもその
中の手にも血など付着していない。ただ、二度と引き返せぬ道を進むと決めた
時から、自分は血と死の薫りに抱きしめられ続けている――比喩的な意味でも、
直接的にも。
『愚かな。何を考えているのだ!』
 あの時の、背徳的であるが故に恐ろしく甘美な感覚が身内を鮮やかに甦り、
僅かに身震いする。
 きつく噛んだ奥歯の軋る音が思いの外、大きく響いた。
 隣で護衛に就いている部下が不審そうな視線を寄越したのに、何でもないと
首を振り、私は前方に注意を戻した。
 今は益体もない事に想像を巡らせている場合ではない。前方、廃屋の中では
私の従僕があれ達に引導を渡すところなのだ。目を逸らす訳にはいかなかった。
 しかし、未だ動きはない。
 そろそろ曙光が射す頃合いだ。
 彼にとっては陽光は怖れる対象ではなくなって幾久しいが、それでも早めに
決着をつける方がいい。不安要素は一つでも少ない方がいいに決まっていた。
 それにしても、随分と待たせる。
 珍しく用心を重ねているのか、それとも――
『遊んでいるのか……』
 不意に、心臓の真裏に氷塊でも押しつけられたような気分になる。
 生きとし生ける者全ての敵と恐れられ、しかし、本人もそれを楽しんでいる
節のある、あの男。一度興が乗れば、その衝動が満たされるまではどこまでも
残虐になれる冷血漢。その血は熱を持たず、胸郭を鼓動が打つ事もない。将に
字義通りの存在。
 それが、どこにあのような情熱を隠し持っていたのか。
 私は、また脱線しそうになる思考の手綱を厳しく引き、廃屋を睨み据えた。
そうする事によって、今は姿の見えぬ従僕を射殺せるとでもいうように。
 と――
「始まったようですね……」
「ああ……」
 微かな悲鳴と共に、銃声が連続して奔騰した。
 周囲の緊張も、弥が上にも高まる。
 激しい破砕音が轟き、もう一度、今度は悲鳴と共に哄笑も聞こえてきた。
 誰かの咽喉が妙な音を立てる。
 臆病者が怯えた訳ではない。
 ここにいる仲間達は、今回のような掃討戦には何度も参加した事のある猛者
ばかりだ。到底、清廉潔白という訳にはいかない、釁られた道を往く者達だ。
その彼らにして、あの男の残酷さにはを背ける。
 そして、逸らした視線の先に私の姿を見つけ、畏怖したように硬直するのだ
――あのようなモノを自在に使役し得る、我が躯に流れる血を思って。
 それが、ほんの少しだけ淋しいと思ったのも今は遠い。
 甘えなど、一分たりとも許される世界ではない。最初に覚えたのは、どんな
逆境にあっても平然と事態に対処する事。それが虚勢であってもいい。
 私は象徴なのだ――この館の、この機構の、そして信仰の守護者という名の
曖昧なものの。
 象徴に躊躇いは不要だ。真っ先に先頭に立ち、迷いを持って見上げる者の目
に燦然と輝き続ける不動の存在として道を指し示さねばならない。それが僅か
でも揺らいだならば、不安という名の波紋は全ての者に伝わっていく。
 その試みは今まで綻びらしい綻びも出さず、割と巧くいっている方だと思う
――実際はどうであれ。
 そう、人が思う程に私は不動でもないし、力の具現者たる奴を完全に自由に
する事はできない。
 特に周囲に誰もいない時、それは顕著だ。尤も、普段はあの男も己の立場を
わきまえ、分を過ぎた行動を起こす事はない。
 もしも、我が血に宿る拘束力がそれ程強くはないと知られてしまえば、事は
個人の問題ではなくなる。それを判って自重してくれているというより、それ
さえも遊びの範疇に含めているのだろう。
 何もかもあっさりと思い通りになるというのは、どうやら遊びとしては下の
下らしい。
 制約が多ければ多い程、それを如何にしてかい潜るかに思いを馳せ、結果を
手にする方が何倍も喜びが大きいではないか、などと嘯く従僕の表情が脳裡を
過る。
 人には望むべくもない、長大な時の流れの中で身につけた処世術なのか。
 ふわり、と幾分生臭い風が額に触れ、はっと我に返った時には目の前に彼が
出現していた。
「……殲滅完了だ」
「御苦労だった」
 彼の言葉に一瞬、躊躇があったように思うのは気のせいだろうか。
 型通りの労いの言葉をかけ、周囲に散った部下に合図する。委細心得た彼ら
が残務処理を始めるのをあとに、私はゆっくりと追い風の吹く中を歩き出した。
「我が主殿に於かれては、些かお疲れの様子」
 普段ならさっさとへ戻っていく筈の従僕が、どういう風の吹き回しか私の
うしろをついてくる。
『何のつもりだ……』
 流石にここ数日の捕り物で、疲れは隠しようもない。
 部下の前でこそしゃんと背を伸ばしてはいたが、本音を言えばさっさと館へ
戻り、熱い湯でも浴びて寝台に倒れ込みたい。
 疲労のせいか、視界が暗く狭かった。
「主殿」
「……構うな」
 手を取って支えてくれようとしたのを振り払い、私は彼の蒼顔をまっすぐに
見た。
「今日はもう、頼む仕事はない。お前の方こそ早く帰って休め」
 彼は面白そうに紅瞳を瞬かせたあと、無言のまま一礼した。そのまま身体を
蝙蝠に変え、私の前から辞去する。
 それを見る度、芝居がかった奴だと思う。かと思えば、壁の中からいきなり
しみ出してきたりする。心臓に悪いからやめろと無駄を承知で言ってみたが、
やはり聞く耳など持たなかったようで、本人の気の向くまま、およそ人間には
不可能な方法で出入りし続け、今に至る。
 従僕の姿が完全に消え失せたのを確認し、私は待たせておいた馬車に疲労で
怠い身体を押し込んだ。


「………?」
 暫く、自分がどういう状態に置かれているのか判らなかった。
 手足はまるで錘に縛りつけられているかのように動かせず、咽喉はひりつき、
酷い頭痛までする。
 馬車に乗ったまでの記憶はあるが、その先が判らない。
 身体に触れる布の感触と空気の匂いで、ここが自室である事はすぐに判った。
ただ怠さも手伝って目を閉じたままなので、周囲の様子は見ていない。
『いつ降りたんだ』
 寝惚けているのか。
 しかし、何度考えても馬車から降りた記憶はなく、必ず迎えに出ている執事
と交わした筈の会話も思い出せない。
 ここまで考え、流石に何かがおかしい事に気付いた。取り敢えず、目を開き
現状を把握しない事には何も始まらない。
 私は萎え切った腕に力を入れ、身を起こそうとした。
「目が醒めたか、主殿」
 異様な程近くで従僕の声がし、次いでそっと上体を起こされた。
 たちまち沸き起こる吐気と激しい眩暈に私は呻きを噛み殺し、傍にあるもの
に凭れ掛かった。
「お前か、従僕」
 ようよう目を開き、無表情な彼の面を見上げる。
 その緋色の両眼を見るまでもなく、自分が起こした醜態に頬が赤くなるのを
感じた。尤も、元々充分に赤くなっているようだから、どこまで彼に悟られた
のかは判らない。
「済まない、面倒をかけた」
 どうせ傍には心配性の執事はいない。
 私は息苦しさと眩暈に耐えかね、目蓋を閉じると抱き支えてくれている彼の
腕の中に遠慮なく寄りかかった。
「……部下の前で突っ張らかるのも結構だが」
 今度も、恐ろしく慎重に身体の向きを変えさせられ、丁度椅子にでも座って
いるような恰好になる。覚えず、吐息が洩れた。
「誰もこんなになるまで我慢しろとは言わなかった筈だが」
 力という力が抜け切っているので、されるがままだ。
 それでも、大分楽になった。
「ああ、そうだな」
 背後から手が額と頬に触れてきた。
 冷たくて気持ちいい。
 身体は敷布で厳重に包まれ、彼と直接肌が触れないようになっている。
 その解り難いまでの気配りがおかしくて、嬉しくて。
 温もりのない掌に顔を預けたまま、私は小さく笑った。
 普段なら得たりと揶揄ってくる不死の王も、今日ばかりは沈黙を守っていた。
 だからかも知れない。
「有難う……」
 然程気負いもせず、礼の言葉が唇をついて出たのは。
 一瞬驚いたような表情の従僕が、初めて見る感情をその怜悧な面に浮かべた。
私が熱に浮かされ幻を見ているのでなければ――そして、その可能性は多分に
高かったのだが――それは紛れもなく柔らかな微笑だった。
 普段見せるような哄笑でも嘲笑でもない、ただ穏やかな微笑み。
 火照った頬に触れていた、無骨なくせにやけに繊細に触れてくる指が優しく、
だが断固として目蓋を塞いだ。
「ゆっくり休め。邪魔はさせない」
 それが己の思いがけぬ表情を見せないためか、それとも頼りない主の不調な
体調を気遣ったものかは判らない。
 どちらでも良かった。
 外はさんさんと陽光が降り注いでいるが、私は促されるままに、また眠りの
世界へ旅立つ事にした。


 たとえ、この世界が血色の虚飾なのだとしても。
 そして、たとえ自分の行いが一夜の安寧しかもたらさないのだとしても。
 それ故にこそ、己は戦い続けなければならないのだ――一夜の安寧を一夜で
終わらせないために。
 知る者のない戦いも哀しみも一人、従僕だけは全て知っている。


 夜の帳の気配を持つ腕の中で囁いた言葉は、過たず聞き届けられた。
「お休み、主殿。善いユメを」





こちらはLIO名でぷらすてぃねーしょんの碧さんへ差し上げたものです。

《従僕》
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